正倉院の宝物のうち一番気になるのが蘭奢待(らんじゃたい)だ。昨秋の正倉院展に出陳されたそうだが見ていない。いったいどのような香りがするのだろう。展覧会に行ったところで分かるわけがない、と思ったら同じ種類の香木「沈香」を嗅ぐ体験コーナーが設けられていたようだ。それなら行けばよかった。仕方がないからお線香を焚くか。
奈良市雑司町に「東大寺東南院旧境内」がある。国指定の史跡である。
まずは、どのような意義ある史跡なのか、東大寺が設置した説明板を読んでみよう。
東大寺東南院は貞観十七年(八七五)十月、理源大師聖宝僧正が薬師堂を創建し、その後延喜四年(九〇四)佐伯院(香積寺)を移し寺観が整備せられた。
寺地が大仏殿の東南に位置するところから東南院と称せられ、三論宗と真言宗の二宗兼学の院家と成り延久三年(一〇七一)三論宗の本所となり、尊勝院と共に東大寺筆頭の院家となった。
白河上皇の御幸以来、天皇・上皇の御所となり、南都御所ともいわれた。
鎌倉時代、後白河法皇や後醍醐天皇の行在所、或は大仏殿落慶供養会に臨席した源頼朝も当院に滞在した。
近くは明治十年二月明治天皇行在所となり名香蘭奢待(らんじゃたい)を截香せられた。
尚明治八年二月寺内改革により東南院は東大寺本坊と改称し、一山を統轄することに成った。
昭和六年七月東大寺旧境内は史蹟に指定されたが、当院旧地の重要性に鑑み、同九年三月更に東南院旧境内を史蹟に指定し、保存が計られるに至った。
名立たる貴人が滞在したことに価値があるようだ。源頼朝は建久6年(1195)3月10日に東南院に入った。供奉に多くの御家人を従え、馬千頭、米一万石、黄金千両、上絹千疋を寄進し、その力を知らしめた。
後醍醐天皇は元弘元年(1331)8月25日に東南院に入った。東大寺別当(第130世)の聖尋(しょうじん)が天皇に近しい人物だったので頼みとしたが、この時の東大寺内部は必ずしも反幕府で一枚岩ではなかった。このため、翌日には寺を出て鷲峰山を経て笠置山に立て籠もることとなる。聖尋も同行した。後に元弘の変が失敗に終わると聖尋は下総へ配流となったという。
そんなエピソードも興味深いが、ここで注目したいのは明治天皇と蘭奢待である。もう一度写真を見よう。「東大寺東南院旧境内」と同じ大きさで「明治天皇奈良行在所」と刻まれている。東南院旧境内は昭和9年に国の史跡となったが、前年の昭和8年に明治天皇聖蹟としての指定も受けていた。史蹟名勝天然紀念物保存法においては両者は同格の史跡だったのである。ちなみに説明板に東大寺旧境内の指定年が昭和6年とあるが、昭和7年が正しいように思う。
明治10年2月8,9日に明治天皇は東南院にお泊りになった。11日の紀元節には神武天皇陵に親拝することとなっていた。蘭奢待を切り取ったのは2月9日のことである。『明治天皇紀 第四』の該当部分を読んでみよう。
正倉院御物の中に黄熟香あり。所謂蘭奢待なり。往時足利義政・織田信長にその一片(長さ各一寸八分)を賜ひしことあり。還幸後、久成に勅して之れを剪らしめたまふ。久成乃ち長さ二寸・重さ二銭三分八厘の一片を上る。天皇、之れを割きて親ら炷きたまふ。薫烟芳芬として行宮に満つ。而して其の残餘は之れを東京に齎したまふ。
薫烟芳芬(くんえんほうふん)とのことだが、どのような香りだったのか。実際に蘭奢待を切り取った久成とは、博物局長の町田久成で元薩摩藩士、後に東京国立博物館初代館長と見なされる人物である。
蘭奢待に義政や信長が切り取ったことを示す付箋が貼ってあるのは写真で見て知っている。しかし、蘭奢待の長さが1.56m、重さが11.6kgもあることは知らなかった。さすがは日本第一の名香である。産地はベトナム中部、ラオス国境の山岳地帯らしい。蘭奢待という名称もよく分からないが、東大寺の文字が隠されている。
何かと関心を掻き立てる至宝だが、今回、いっそう興味を持ったのは、チョコレートで作ったレプリカが関連グッズとして売られていたことだ。25cmだが例の付箋まで再現している。「香木貯古齢糖」8500円、その場にいたら財布に手をかけるかもしれなかった。
チョコのような甘っちょろいものではなく、崇高な香を愛でていた東大寺東南院の明治天皇。鹿児島では西郷軍が動き出そうとしていた。彼岸と此岸のように思える。動じない、それが君主たるべき者の態度なのだろう。
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