維新の会が人気である。大阪維新の会というが、国政をも変革しようという構想を抱いている。大前研一という経済評論家が「平成維新」を主張していた。かつて右翼の街宣車は「昭和維新」の断行を叫んでいた。さらに遡ると、大隈重信首相が「大正維新」を唱えていた。いずれも本家は「明治維新」である。閉塞状況を打破する際のスローガンには「維新」がよく使われる。「改革」では弱く「革命」では強すぎるのか。「維新」からは志士の抱くロマンが感じられるのか。
目黒区下目黒三丁目の目黒不動の境内に「北一輝(きたいっき)先生碑」がある。
軍事クーデター二・二六事件が失敗に終わり、その理論的指導者と見なされた北一輝は、昭和12年8月19日に処刑された。真夏の晴れあがった日だったという。『日本改造法案大綱』を著し、国難に瀕した日本の進むべき道を示した革命家の死は、何を意味したのだろうか。その後の日本が歩んだ道を見ると、その総括たるや容易なことではない。
「北一輝先生碑」は、大川周明(おおかわしゅうめい)の撰文である。大川は五・一五事件に関わって下獄し、二・二六事件当時は獄中にあった。その後の東京裁判において東条英機の頭を叩いたのが記録フィルムに残り、そればかりが有名になっているが、彼もまた憂国の士であり、北同様に革命志向を抱いていた。革命家こそ革命家を知る。大川は北をどのように見ていたのだろうか。
歴史は北一輝君を革命家として傳へるてあらう然し革命とは順逆不二
の法門その理論は不立文字なりとせる北君は決して世の常の革命家て
はない君の後半生二十有餘年は法華経誦持の宗教生活てあつたすてに
幼少より煥發せる豊麗多彩なる諸の才能を深く内に封して唯た大音聲
の讀經によつて一心不乱に慈悲折伏の本願成就を念し専ら其門を叩く
一個半個の説得に心を籠めた北君は尋常人間界の縄墨を超越して佛魔
一如の世界を融通無礙に往來して居たのてその文章も説話も総て精神
全體の渾然たる表現てあつたそれ故に之を聴く者は魂の全體を擧けて
共鳴したかくして北君は生前も死後も一貫して正に不朽てあらう
昭和三十三年八月 大川周明撰 玄林武田梅書
大川によると、北は革命家というより宗教家であるらしい。そういえば日蓮も幕府に改革を迫った偉大な思想家であった。
さて、現代の「維新」は制度変更を伴う革命に至るのか、明治維新以外の「維新」がそうであったように、単なるスローガンに止まることになるのだろうか。
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