皇位継承は日本の行く末を左右する大きな問題である。皇位を巡って骨肉の争いをした古代もあれば、後継者が少なくて困っている今日もある。どのように皇位継承がなされたのか歴史を紐解くことは今こそ必要なのだ。
大阪府泉南郡岬町淡輪に「垂仁天皇皇子五十瓊敷入彦命宇度墓」がある。宮内庁の管理する陵墓である。考古学の世界では「淡輪ニサンザイ古墳」という。
五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)は第11代垂仁天皇の皇子で、弟に大足彦尊(おおたらしひこのみこと)がいた。『日本書紀』巻第六に次のような記述がある。
卅年春正月己未朔甲子、天皇詔五十瓊敷命・大足彦尊曰、汝等各言情願之物也。兄王諮、欲得弓矢。弟王諮、欲得皇位。於是、天皇詔之曰、各宜隨情。則弓矢賜五十瓊敷命。仍詔大足彦尊曰、汝必繼朕位。
垂仁天皇30年春正月6日、天皇はイニシキとタラシヒコにおっしゃった。「おまえたち、それぞれ欲しいものを言うがよい」兄のイニシキは「弓矢をいただきとうございます」と答えた。弟のタラシヒコは「皇位をたまわりたくぞんじます」と答えた。そこで天皇はおっしゃった。「それぞれ思いどおりにしてやろう」イニシキには弓矢をお与えになり、タラシヒコには「おまえは必ず私の位を継げ」とおっしゃった。
やがてタラシヒコは第12代景行天皇となって大和朝廷の版図を広げていくのである。つまり、この時代には皇室典範はなく皇位の長子相続というルールは確立されていなかった。父帝の意思と本人のやる気にかかっていたのである。
こんな結論を導き出して今の何に役立つというのか。宸襟を悩ましたまう皇位継承は、今や当事者の意思とは離れたところで国家の問題とされているのである。やはり大上段に振りかぶって始めると竜頭蛇尾に陥ってしまう。気を取り直して、イニシキに関する別の記事を読もう。
卅五年秋九月、遣五十瓊敷命于河内國、作高石池・茅渟池。冬十月、作倭狹城池及迹見池。是歳、令諸國、多開池溝、數八百之。以農爲事。因是、百姓富寛、天下大平也。
垂仁天皇35年秋9月、イニシキを河内国へ派遣して高石池と茅渟池をつくった。冬10月には大和の狹城池と迹見池をつくった。この年、諸国に命じて池や水路をたくさんつくらせた。その数800あまりで、農業がさかんになった。これによって百姓は豊かになり天下は太平になった。
弟タラシヒコは武威で、兄イニシキは産業振興で国を安定させた。しかし淡輪ニサンザイ古墳が本当にイニシキの墓かと問えば疑念が生じるのは大王家の陵墓の常である。五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)の墓は、1875年3月8日に阪南市の玉田山遺跡に治定されていたのが、1880年12月28日に治定替えされているのだ。玉田山にはイニシキの菟砥川上宮(うとのかわかみのみや)があったとされる。
菟砥川(うどがわ)は阪南市を流れる川で、宇度墓(うどはか)は岬町にある陵墓である。紀北へ通じるこの場所は流通に大きな意味があったに違いない。皇位ではなく弓矢を選んだ兄王は実利を得たのかもしれない。
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