人名や地名は、人にあっては顔のようなもので、間違えられると本当にがっくりする。しかし、漢字にふりがなが振られているわけではなし、読み間違えは、ままあることだ。「深日」も字面が易しいわりには、難読の部類に入るだろう。
大阪府泉南郡岬町に鶴龍山金乗寺(こんじょうじ)があり「深日御坊(ふけごぼう)」と呼ばれている。
浄土真宗本願寺派のお寺で、寺名を示した山門左の石柱の側面には「親鸞聖人御真影御駐籃之地 元御兼帯所 深日御坊」と刻まれている。「兼帯所」とは西本願寺宗主が住職を兼帯するという格式ある寺院のことだ。文明18年(1486)に本願寺蓮如が布教のため紀州に向かう途上、この寺に泊まり山号と寺号を授けたという。
金乗寺が総本山・本願寺に最大の貢献をしたのは反信長抗争の時である。『日本歴史地名大系28大阪府の地名Ⅱ』で「金乗寺」の項を読んでみよう。
石山合戦の際、本願寺顕如は当地方門徒に消息を下し兵糧米を求めた(金乗寺文書)。そのため当寺七世浄真が中心となって兵糧米を集め、石山本願寺(跡地は現東区)へ運び、織田信長に抗戦する本願寺を支援することに尽力した(深日旧事記)。また天正八年(一五八〇)石山合戦が終結し、本願寺が鷺森(さぎのもり、現和歌山市)へ移転するに際し、当寺門徒衆は深日北方の海岸まで顕如一行を出迎え、一行が当寺に五昼夜滞留する間その警護に当たった(「金乗寺由緒」寺蔵)。そのことは顕如が堺浦惣門徒中に宛てた寺蔵の消息からもうかがえる。同一〇年信長軍余勢が紀州へ向かう時、当寺了性ら門徒は灰賦(はいぶ)峠でそれを阻止したと伝える(同由緒)。
境内には樹齢500年以上という「いちょう」の木があり、府指定の天然記念物である。樹高17mの巨木の手前に小さく写るのは宗祖親鸞聖人である。その法統を継ぐ顕如上人が滞在した時に「いちょう」はどのような姿だったのだろうか。
国道26号線沿いに「史跡・石山合戦古戦場 灰賦峠」がある。岬ライオンズクラブ『みさき風土記』で戦いの経緯を読んでみよう。
石山合戦は終結したが、2年後には鷺ノ森別院に織田勢が押し寄せることになった。このときの総大将は織田信孝で3,000騎をもって泉州路を南進する。まず先陣の1,000騎がひたひたと深日へ向けて押し寄せて来たのである。「織田勢の先鋒淡輪に到着」の報に、深日・多奈川のあちこちでは鐘や太鼓が鳴り渡り、村人総出の防御線となった。
現在「大阪ゴルフ・クラブ」の入口に立てられている「灰賦峠」の標示板のあるところから「みさき公園駅」のあたりにかけ、陣を張って織田勢を待ち受ける。やがて鬨の声をあげて攻め寄せてきた。折りしも吹きかかる西風にのせて、一同家のかまどから持ち出してきた灰を、敵方めがけてまき散らす。灰で目つぶしをしながら、手籠に入れた小石を投げつける。飛道具をもたない村人たちのゲリラ戦法に、さすがの織田勢も前進することが出来ず、ただむやみに鉄砲をうちかけるだけである。
と、急にうしろの本隊から「撃ち方やめッ」の命令が伝えられた。明智光秀の謀反により、本能寺で信長横死の報が届いたからである。
「灰賦峠」は「灰振峠」とも「灰吹峠」とも呼ばれる。難読地名のこの場所で、ついに石山合戦は終わった。最後は灰と鉄砲との戦いであった。