現代において心中は陰惨な事件に他ならないが、江戸時代ではロマンに化することもあった。もっとも人の死を思えば美しいも何もあったものではないが、身分を越えた道ならぬ恋は自由を求める人心の発露である。「曽根崎心中」「心中天網島」は言うまでもなく、男女の事件とその物語は数多い。
大東市野崎二丁目の野崎観音(慈眼寺)に「お染久松之塚」がある。
宝永7年(1710)正月6日に、油問屋の娘お染と丁稚の久松が情死を遂げた。実際にあったこの事件がネタとなって浄瑠璃『新版歌祭文』がつくられた。作者は近松半二、『妹背山女庭訓』でも知られる浄瑠璃作家である。
お染は恋しい久松を訪ねて野崎村へやってくる。「野崎村の段」の一節である。
切つても切れぬ戀衣や 本の白地をなまなかに
お染は思ひ久松の 跡を慕うて野崎村
堤傳ひにやうやうと 梅を目當に軒のつま
そして久松にこう言った。有名な「お染のくどき」である。
そなたは思ひ切る気でも 私や何ぼでもえ切らぬ
餘り逢ひたさ懐しさ 勿體ない事ながら
観音さまをかこつけて 逢ひにきたやら南やら
この引用部分が塚横の文学碑に刻まれている。お染久松の墓は羽曳野市野々上五丁目の野中寺にもある。上方芸能が生み出した恋の史跡である。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。