安土桃山期から江戸初期にかけてのキリスト教の広まりや貿易の拡大には目を見張るものがある。私は考える。鎖国がなかったならば、日本は別の道を歩んでいたのではないか。近代はもっと早くに訪れたのではないか。宗教的寛容を有し貿易立国によって、その繁栄を世界に知られる現代日本の原点は、400年以上前にあった。
大東市三箇五丁目に「三箇城址」がある。三箇菅原神社の隣に標柱がある。
神社と住宅地、川に公園と、日本のどこにでもあるような風景である。東に飯盛山を望むこの地は、かつてヨーロッパにまでその名を知られたキリシタンの聖地であった。『フロイス日本史3 五畿内篇Ⅰ』(中央公論社、1981年)の第14章を読んでみよう。
この飯盛山の麓には、長さ四、五里の大きい淡水湖があり、そこにはおびただしい独木舟、その他の小船がある。三ヶ殿はまだ異教徒であった折に、この湖の傍にすでに小さい寺院を建てていた。彼は(キリシタンとなると)さっそくそれを教会に変えた。しかしその後、三千名を越える家臣がキリシタンとなった時に、サンチョ〔彼にはこの教名が与えられた〕は、そこに司祭たちが(寝泊りできる)建物が付属した美しい教会を建てた。そしてこの三ヶ殿は、日本の教会が五畿内地方で有するもっとも堅固な柱の一となった。彼の邸はあたかも修道院のようであった。十五ヵ年の間、その三ヶの教会で復活祭と降誕祭が祝われた。そしてその際、彼はその地で盛大に祝うために各地各国から参集したすべてのキリシタンに気前よく饗応したので、彼の支出と費用は相当なものになった。(三ヶ)サンチョは日本の諸事に精通し、諸宗派のことにも造詣が深かった。そして彼ははなはだ身分の高い人であったし、キリシタンたちはつねに彼を大いに尊敬したので、(イエズス)会の人々は、かの地方では、まるで彼を父のように見なし、彼もまたその行ないでそれが(事実であることを)証した。すなわち(イエズス会員)は、布教事業において彼の助言や庇護を役立てたからである。(サンチョ)および、同じく大いなる徳操の鑑であった妻ルシアは、しばしば告白をすることを常とした。サンチョは平素、デウスのことをもっとも上手に、またもっともてきぱきと説(き得る)人の一人であり、そのことに格別の喜びを感じていたので、彼はその地方において、(イエズス)会のためにもっとも功績ある一人となった。
サンチョという三ヶ殿は、三箇頼照といい三好長慶の被官であった。長慶はキリスト教布教に理解があり、河内にはキリシタンが大変多かったようだ。三箇氏が後に明智光秀の謀反に加担したことで、城も協会も焼き払われ跡形もなくなってしまったという。
フロイスが「長さ四、五里の大きい淡水湖」と報告しているのは「深野池(ふこのいけ)」で、18世紀初めの大和川の付替えまでは存在した。現在は深北緑地にその名残を見ることができる。
のどかな風景を見ていると、もしかしたらキリシタンの王国もこのように平和だったのかもしれぬと錯覚する。しかし厳しい現実からの救いを信仰に求めたのがキリシタンの姿なのだろう。風景といい信仰といい、すっかり変わって、隔世の感が強まるばかりである。ただ、写真のような陽射しの強さだけは、変わっていないはずだ。
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