時々読めない漢字に出会うことがある。下の写真の「鴈」がそうだ。もっとも、隣の石柱に「雁」とあるからそれだと分かる。この石柱の裏面に「この碑は室町時代文明年間から語り伝えられた水鳥の夫婦愛の物語を記念して建てられた供養塔である」を刻まれている。いったいどのような物語なのか。
四條畷市大字中野に「鴈塔(がんとう)」がある。
鴈塔の隣に大きな板碑がある。どうやら両者は新旧の関係にあるらしい。
石碑が語る夫婦愛の物語とはどのようなものか。『四條畷市史第四巻(史跡総覧)』の「鴈塔物語」の項をを読んでみよう。
「文明の頃、此里に狩人ありて、郊原(かうげん)に出て、一朝、雄鳥の鴈を射る。即、それを見るに頭なし。狩人、大に怪しみ、奇也とす。其後、一歳を過て、又此野に狩するに、此度は、雌鳥の鴈を射て捕ふ。翼の中を見るに、初に射捕(いとり)し雄鳥の首を抱きて死す。猟人、これを考ふるに、一とせ前の雄とりの首は、かれが夫鳥の首なり。恩愛執着の深きを感じて、大に涕哭(ていこく)し、忽、出家して、雌雄の鴈の為に菩提を弔ひ、経を誦して、仏門に帰する事、大かたならず。かの雌雄をこゝに籠蔵(こめおさ)て、鴈塚とよぶ。近年、其旨趣を石に鐫て碑を立、この因縁を世にしらしむ事となりぬ」(柳原書店・河内名所図会参照)
この趣旨を書きとめた牌型一二〇センチの雁塔婆は「施主寺尾幸助、寛延二歳(一七四九)」に造られたもので、現在は四條畷消防署前の堤防上に建っている。その横には、写真に見られるような二メートル強の板碑が立っていて、上部中央に梵字(多分、金剛界大日如来のバンと読むのであろう)を書し、中央に「当所古老伝雁石塔婆、下部に「正保二年六月中野村」と書いている。正保二年(一六四五)は、現牌型碑より百年前であり、正保の板碑が風化して来たために、当地に縁を持つ大坂の豪商とも考えられる寺尾幸助なる人物が、寛延二年に雁塚の由来文をも加筆して建てかえたものであろう。
同様な物語が、大阪市東成区深江南三丁目の法明寺にも伝わる。似た伝説が各地に残るのはよくあることだが、雁の夫婦愛を語る背景が何かあったのだろうか。
時は文明年間。応仁に続く文明の頃から戦乱は全国に拡大し戦国の世となっていく。夫を失う妻も多かったろう。戦国ロマンなどと言われるが実際は違う。生きるか死ぬかの問題だ。愛する人と永遠に別れなければならない、こんな悲しみのない、平和な世であってほしい。それが庶民の願いだった。
そんな思いを雁の姿に託して語ったのが鴈塔伝説だったのかもしれない。旧碑が建てられたのが正保二年、戦乱の記憶もまだ残っていたはずだ。平和を希求する庶民の祈念碑、それが鴈塔なのだろう。
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