瀬戸内に「日本のエーゲ海」と形容される場所があるが、多島美に燦々と降りそそぐ陽光が確かに似つかわしい。同様な形容に「東洋のマチュピチュ」がある。マチュピチュといえば、ペルーの山岳地帯にあってインカ帝国の遺跡として知られる天空の世界遺産である。それが東洋にあるという。
新居浜市立川町に「東平貯鉱庫跡(とうなるちょこうこあと)」がある。石造り、煉瓦造りの建物、それが廃墟と化して山中に現れるところが「マチュピチュ」らしさだろう。ただし、ペルーの本物は王族の別荘地跡で世界遺産に登録されているのに対し、似て非なるマチュピチュは銅山跡で経済産業省選定の近代化産業遺産である。
ここは別子銅山盛んなりし頃、鉱石採掘の拠点となり、最盛期には3800人の人口があったという。写真の貯鉱庫は明治38年竣工の建造物で、製錬所に向けて運ばれる鉱石を集積した場所である。新居浜市設置の説明板を読んでみよう。
明治35年(1902)に第三通洞が貫通し、明治38年(1905)に東平の中央に新選鉱場が、東平~黒石駅間に索道が、新選鉱場から第三通洞を経て東延斜坑底に連絡する電気鉄道がそれぞれ完成した。大正5年(1916)には、採鉱本部が東延から東平(第三地区)に移転して、東平が採鉱拠点になる。
第三通洞から搬出された鉱石は、大マンプ、福井橋、小マンプを通って終点の新選鉱場に運ばれた。鉱石と岩石とに選別された鉱石は貯鉱庫に貯められ、順次索道で黒石駅へ下ろされた。後には距離を短縮して黒石駅から端出場へと変更して下ろされ、四阪島製錬所に運ばれた。
索道とは鉱石を運ぶゴンドラリフトで、その停車場跡が1枚目の写真の上部に写っている。鉱石はゴンドラから鉄道貨車、運搬船へと乗り換え、瀬戸内海の四阪島で製錬された。明治38年に四阪島で製錬が始まったのは煙害問題を解決するためであった。
それ以前に製錬された銅が見事に姿を変え、皇居外苑で「楠正成像」となっている。ナポレオンも思わず帽子を脱ぐ完璧な銅像である。あのリアリズムの巨匠、高村光雲が中心となって制作したもので、分解鋳造法による日本初の作品だという。
自臣祖先友信開伊予別子山銅坑子孫継業二百年亡兄友忠深感国恩欲用其銅鋳造楠公正成像献之闕下蒙允未果臣継其志董工事及功竣謹献
明治三十年一月 従五位臣住友吉左衛門謹識
皇室への献上品だから、臣は謙遜して小さく記している。意訳すると次のような意味となろう。
臣下である私の祖先友信が伊予の別子山に銅山を開き、子孫が操業を続けて200年となりました。亡き兄の友忠はこの国に生まれた喜びを深く感じて、別子山の銅を用いて楠木正成公の像を鋳造し、これを皇室に献上しようとしました。許可をいただいたもののいまだ果たすことができていませんでしたが、私はその遺志を継いで工事を監督し、このたび竣工に及びましたので謹んで献上いたします。
住友吉左衛門は住友家代々の当主が継承した祖名で、銅山開発に力を入れた3代目友信が最初に名乗った。別子銅山の開坑は4代目友芳名義で幕府に申請し、元禄4年(1691)に許可を受けた。この時、先代の友信も存命であったから、彼が主導して別子銅山を開いたとも考えられる。
それから200周年の記念を祝ったのが1890年、すなわち明治23年である。この時、住友家当主となっていたのは13代友忠であった。友忠は記念事業として銅像の献納を計画したが、記念の明治23年をひと月ほど残して急逝してしまう。
この時、住友家には相続すべき男子がおらず、友忠の母である登久が14代目を相続する。明治25年には友忠の妹に公家の徳大寺家から婿養子を迎え、翌年に15代目を相続させる。住友吉左衛門友純(ともいと)の登場である。この友純が銘文にある「住友吉左衛門」で、先々代の友忠は「亡兄」に当たるというわけだ。
友純は住友財閥の総帥として事業を拡大し、東北帝大の本多光太郎を支援してKS鋼にイニシャル(住友吉左衛門)をも残している。別子銅山の東平に採鉱本部が移転したのは大正5年。住友当主の友純が亡くなるのは大正15年。東平の採鉱本部が端出場に移転するのが昭和5年。
東平(とうなる)の最盛期とともに歩んだ15代目住友吉左衛門であった。住友家の基幹事業であった別子銅山が今、観光地となり「東洋のマチュピチュ」とも呼ばれているとは、KS氏の理解をはるかに超えた出来事であろう。