今読んでいるのは吉川弘文館の新シリーズ「敗者の日本史」『承久の乱と後鳥羽院』である。どうも私は勝者より敗者に心惹かれるところがあり、このシリーズは実に楽しみにしている。敗者を好むのを下見て暮らす下種な根性と言われたらそれまでだが、歴史を切り開こうとしながら実は時代の趨勢に逆らっていたことに気付かぬまま滅び去った者を鎮魂するのは、今を生きる私たちの責務のように思える。
大阪市中央区大阪城に「城中焼亡埋骨墳」がある。一見、何のことか分からず、やや不気味な印象さえ受ける。
石碑の裏面には「慶応四辰歳七月薩州長州建之」とあるから、戊辰戦争において薩長軍が建てたものと分かる。新政府の名義ではないところが、この碑の性格を表しているようだ。説明板を読んでみよう。
慶応4年(=明治元年、1868)1月、明治維新によって旧幕府が本拠としていた大坂城が新政府軍に引き渡されるに際し、これをいさぎよしとしない幕臣たちが、城内に火を放ち自害したという。新政府軍の主力だった薩摩・長州両藩の有志たちは、彼らの遺骨を埋葬し、武士の鑑とたたえて、同年7月にこの石碑を建立した。のちにこの碑は「残念塚」・「残念さん」とよばれ、どんな願いもかなえてくれる神様として人々の信仰を集めた。
1月3日に始まった鳥羽・伏見の戦いに敗北した旧幕府軍は続々と大坂城へ退却してきたが、6日夜の徳川慶喜の脱出によって大混乱に陥る。9日には薩長軍が大坂城に進撃し、幕府目付の妻木頼矩(つまきよりのり)が長州藩兵隊長の佐々木四郎二郎と城の引渡しについて交渉をはじめた。ところが、その最中に本丸の台所から出火して燃え広がり、10日には焔硝蔵にも引火し大爆発を起こしたという。
この時の出火が幕臣による放火だったということだ。城を枕に討死した城兵も寄手の薩長兵も、彼我が入れ替われば同じ運命である。守るべきものが守りきれなかった口惜しさは痛いほどよく分かる。そう思った薩長軍が城兵を弔う碑を建てたのであろう。碑が建てられた7月には、江戸が東京に改称されている。
城中焼亡埋骨墳の手前に比較的新しい碑があって、「淀君之霊」と刻まれている。この供養塔の詳細は知らないが、大坂城の二度の落城における犠牲者がここで慰霊されているというわけだ。隣はピースおおさかである。とにかく平和を祈る場所だと強引にまとめるつもりはないのだが、分かりやすい気はする。
自害した城兵の思いを考えると胸の詰まる思いがするが、それを「残念さん」と呼んで現世利益の神様に昇華させたのは、庶民の生きる力だ。以前にも尼崎の「残念さん」をレポートしたことがある。
日本史のいたるところに敗者がいる。むしろ敗者のほうが多いのかもしれない。それだけに多くの庶民が共感しながら慰霊をしているのである。
ご覧いただきまして、誠にありがとうございます。御霊のご平安に配慮されていることに敬意を表します。
投稿情報: 玉山 | 2019/07/15 20:30
ブログ主様、感銘を受けました。初めて書き込みさせて頂きます。残念塚に眠る方々にも人生があり、生き方があり、正義があり、忠義義憤があり、実は残念塚様と別に名も無き墓が外堀にあります。残念塚様の位置は暗く湿度が高く、私は御霊を然るべきところに暫時、移霊しようと思っております。然るべきところとは、大阪城より近い、陸軍廟、です。その後、真に然るべき故郷にお移り抱く、では如何でしょうか?山里丸には淀公様、秀頼公の御霊は感じられません、しかし、残念塚様、外堀の石碑様、には御霊が、おられます。間違いありません。
投稿情報: 國廣智昭 | 2019/07/13 20:45