一休さんといえば、ポク、ポク、ポク、チーンである。とんちで見事に難問を解決してみせるのだが、よく言えばとんちで、下手をすれば屁理屈と言われかねない。あんな小生意気な小僧が大人になったらどうなるのか。一休宗純、臨済宗の高僧となる。高僧とはいえ、肉食妻帯の破戒僧でもあった。
豊中市中桜塚二丁目の瑞輪寺に「紹偵(しょうてい)の墓」がある。写真左側の「僧塚塔」とあるのがそれである。
紹偵とは何者か。説明板を読むとおなじみの名前が登場する。一休さんだ。
室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、後小松天皇の落胤といわれる一休宗純禅師は、伝統や権威を打破し、自由な気風で、京都から堺にかけて庶民のあいだで活躍された禅僧である。
その一休禅師の子『紹偵』はここで生まれ、水戸光圀の編纂した「大日本史」に、「宗純に一子あり、紹偵と称し、岐翁(ぎおう)と号す、摂津桜塚に住す」と明記されています。堺で修業し禅僧となり、六十歳の時この寺で死去しました。
一休さんの子どものお墓である。しかも、『とよなか歴史・文化財ガイドブック』(豊中市教育委員会)によれば、一休さん自身もこの地にゆかりがあるというのだ。
境内東北隅にある僧塚は一休宗純の子紹偵の墓と伝えられます。一休自身も応永24年(1417)から20年余り、当地に滞在していたともいわれます。僧塚はもともと大石塚古墳の南東にありましたが、明治時代になって現在地に移されました。
とはいえ、応永22年に一休は近江堅田の華叟宗曇和尚に弟子入りし、師の遷化するまでの13年間を堅田で過ごしたというのが通説である。一休さんと紹偵さんの情報が長い歴史のうちに混乱してきたのかもしれない。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで高島米峰『一休和尚伝』丙午出版社(大正1)を閲覧すると、次のような記述が見つかった。
一休の子の事については、
僧となり、名を紹偵、号を岐翁と言ったといふこと。
摂津の桜塚、及び堺に居たといふこと。
明人の画いた一休の像に、「尺八声々吹又吹、淫坊酒肆一生棲、瀟洒途轍少人踏、眼見東南竟北西」といふ讃をしたというふこと。
明応七年二月に、少納言菅原和長に、下炬偈を授けたということ。
明応七年に、七十二歳であったということ、従って、応永三十四年の生れで、一休が三十四歳の時の子であるといふこと。
たゞしこれだけしかわからない。
紹偵と摂津の桜塚、つまり瑞輪寺とのゆかりは確かなようだが、没年齢は60歳ではなさそうだ。できれば母の素性を知りたいものだが、これまた不明である。一休が34歳といえば、まだ近江堅田にいた頃だろう。修行中であろうとなかろうと構わない。人間らしい生き方を追求した一休さんの血統と法統を受け継ぐ高僧、それが紹偵であった。