小野妹子は我が国の歴史上の人物ではかなりの有名人である。そもそも「妹子(いもこ)」という名前にインパクトがあり、小学生でも記憶に残る。そして、遣隋使として「日出処天子致書日没処天子無恙云々」という有名な国書を皇帝煬帝に奉呈したのは、彼の最大の事績である。この時、煬帝はずいぶん怒ったようだが、いったいどのように対応したのだろうか。大役を果たした妹子が冠位十二階の最高位を授けられたのもうなずけるというものだ。
大阪府南河内郡太子町大字山田の科長(しなが)神社に隣接して「道祖小野妹子墓」がある。
「道祖」というのは聞き慣れない。石碑の揮毫者は「華道家元四十三世池坊専啓」である。ということは、生け花を小野妹子が始めたというのか。科長神社で由緒書をいただいて読んでみると、次のように記されてあった。
科長神社境内地に接して小野妹子之墓がある。華道の元祖として京都池坊が管理する。
六月三十日の命日祭には、科長神社宮司が斎主として奉仕する。
なるほど、深いぞ妹子。日本文化の源流に位置する芸術家でもあったのか。 妹子と池坊はどこでどのように結びついたのか、詳しく知りたくなってきた。そこで、太子町立竹内街道歴史資料館発行『科長の里のむかしばなし』所収の「“いもこ”の桜」を読んだ。物知りの甚兵衛さんと若衆が、聖徳太子が創建したという京都・六角堂の話をしている。
「聖徳太子さんらはその日、池の辺に泊まらはったんや。その晩、太子さんに夢のお告げがあって、護持仏を安置するために、六角形のお堂を建てやはったのが六角堂(頂法寺)の始まりや。」
「ほんで、妹子さんは六角堂の坊さんにならはりましたんか。」
「そや。六角堂初代住職にならはったんや。妹子さんは聖徳太子さんが沐浴しやはった池のそばにお堂を建てて、毎日、護持仏に花を供えはったんや。そこで六角堂の住職を“池坊”て呼ぶようになったというこっちゃ。」
「ええー!池坊て、あのお華の家元の池坊でっか」
「ほぉー、よお知ってるな。」
「いや、娘がお華習とって、こないだ教てもろたとこでんや。」
「その華道の“池坊”さんは、今も六角堂の住職さんで、小野妹子さんを道祖としてお祀りしたはるわけや。」
ほぉー、知らなんだなあ。勉強になるなあ。墓の近くに大正11年の「道祖墳墓修築竣成紀念碑」があるが、それには「小野妹子後裔華道家元四十三世池坊専啓」と刻まれている。さすがは家元さんやわ。
しかし、待てよ。生け花が文化史に登場するのは室町時代と習ったような気がするが、どうなのだろうか。そこで調べてみると、昨年「2012年、池坊は歴史に刻まれて、550年」というキャッチフレーズで「池坊550年祭」というイベントが行われていた。
京都・東福寺の禅僧・雲泉大極の日記『碧山日録』に、寛正三年(1462)、六角堂の僧・池坊専慶が立てた花が大変評判になったことが記されている。2012年はそれから550年というわけである。文化史としての源流は、この池坊専慶のあたりだろうが、宗教の要素が加わると、小野妹子まで遡ることができるのだろう。
小野妹子が隋から無事に帰国できたのは、花を美しく立てて煬帝の怒りを解いたからだ、としたら面白いのだが。勝手な想像はやめておこう。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。