前方後円墳はよくテストに出る重要語句なのでよく覚えている。形状が昔のカギ穴のようで印象が強い。前が方形部で後が円形部だ、と思ったら、築造当時にはそんな認識はなかったらしい。後円部に埋葬施設があるので、こちらを前と見なすことも可能だ。だが、下の写真のような礼拝場所は、前方部の手前につくられていることが多い。前から拝むということなのだろう。
大阪府南河内郡太子町大字太子に「敏達天皇河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)」及び「欽明天皇皇后石姫皇女磯長原陵(いしひめのひめみこしながのはらのみささぎ)」がある。敏達天皇は第30代天皇、石姫皇女は敏達天皇の母であり、合葬墓となっている。歴代天皇陵としては最後の前方後円墳となる。
敏達帝の治世は蘇我馬子と物部守屋によって支えられていたが、この二人の重臣は仏教をめぐって対立していた。馬子は仏教を信奉していたが、それに守屋は反対する。そして、守屋は馬子のことを天皇に訴えたのだ。『日本書紀』巻第二十を読んでみよう。(小学館『新編日本古典文学全集』より)
三月の丁巳の朔に、物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫と、奏して曰さく、「何の故にか肯へて臣が言を用ゐたまはざる。考天皇より陛下に及るまでに、疫疾流行りて、国民絶ゆべし。豈専ら蘇我臣が仏法を興し行ふに由れるに非ずや」とまをす。詔して曰はく、「灼然(いやちこ)なれば、仏法を断(や)めよ」とのたまふ。
敏達14年(585)3月1日、物部守屋と中臣勝海が天皇に次のように申し上げた。
「どうして私たちの意見を聞いてくださらないのでしょうか。亡き父帝から陛下の御代には、疫病が流行して国民が絶え果てようとしております。これは、蘇我馬子が仏教を信仰して盛んにしようとしているからではないでしょうか。」
天皇は次のように命令した。
「明らかにその通りだ。仏教を禁止せよ。」
我が国に廃仏は三度あった。欽明天皇13年(552)の仏教伝来から近い時期、排仏派の物部尾輿らは、疫病が流行するのは蘇我稲目が仏像を礼拝しているからだとして、「早く仏像を投げ捨てるべきです」と訴えた。すると
天皇の曰はく、「奏(まお)す依(まにま)に」(そうせよ)とのたまふ。
これが一度目。
二度目は上記の記事、三度目は明治初めの廃仏毀釈である。明治新政府の神仏分離令を契機として、神道の純化が暴力的な民衆運動として現れたものだが、仏教を法的に禁止するものではなかった。
このように見ると、仏教(仏法)そのものを禁止する命令を出した天皇は、敏達天皇だけということになる。とはいえ、敏達帝は仏教がお嫌いだったわけでもない。蘇我馬子には「占い師の言葉に従い、父の崇拝した仏を祀れ」とも命じている。宗教にはあまり関心がなかったのだろう。
『日本書紀』において敏達天皇は、「文史(ぶんし)を愛(この)みたまふ」(文学と歴史がお好きだった)と紹介されている。仏教を禁止した唯一の天皇は、決してファナティックな排仏論者ではなく、穏やかな文人天皇であった。
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