一生のうちに530万円の年収を15億1200万円にするには、よほどの商才を発揮するか、6億円宝くじを2、3本当てるしかない。昔は戦争成金なぞいたようだが、この平和で低成長の時代に何ができるというのか。権力と結びついて出世を遂げてみるか。大借金の権力から何が得られようぞ。
羽曳野市通法寺の源頼義墓に「奉寄進 頼義公御廟前 石燈臺一基」と刻まれた石燈籠がある。全体の姿は前回の記事の写真を参照されたい。
寄進したのは誰か。燈籠の左側面に刻まれているのだが、写真では分かりづらい。判読すると…
新羅三郎二十代後裔 武州川越城主 従四位下行左近衛権少将兼美濃守源朝臣松平吉保
名乗りが長くて立派だが、要するに松平吉保さんである。源朝臣だから本姓は源氏である。はて?
新羅三郎とは源義光で、頼義の三男である。子孫のうち名高いのは武田信玄だが、関係者だろうか。武蔵の川越の殿様である。要衝の地である川越を守るのは将軍からかなり信頼されている証だ。
位階は従四位下、官職は左近衛権少将。近衛府の少将は正五位下相当だが、実際には中将クラスの従四位下を得て、位階より官職の方が低くなっている。このため位官の間に「行」が置いてある。そして受領名が美濃守である。
燈籠の右に回ってみると「元禄十四辛巳年十二月十八日」とある。この年、1701年に川越城主だったのは、柳沢吉保に他ならない。
今流行の男女逆転映画『大奥~永遠~』では、柳沢吉保を尾野真千子が、将軍綱吉の寵愛を独占するためには手段を選ばない抜け目ない“女性”として演じている。他にも忠臣蔵関係ではよく登場する吉保だが、よいキャラクターに描かれることはあまりない。
歴史学者の辻善之助は、柳沢吉保を次のように評している。(郡山城史跡柳沢文庫保存会発行『柳澤吉保の一面』より)
要するに、吉保は世間に伝うるが如き貧婪奸侫の邪臣にはあらず、またもとより大なる野心家でもない。さればとて、身を以て国家の重きに任じ、大なる経綸を有するという政治家でもなかった。畢竟大なる罪もなく、大なる功もあったのではない。公には将軍の忠実なる侍臣として、私には文芸及宗教に相当の趣味を有していたお大名気質の常の人であったのである。彼に対して政治上の責任を負わしむるは、寧ろ酷に失すると共に、また彼を買いかぶったものといわねばならぬ。
おそらく、そうなのだろう。後世に生きる人々は歴史を善玉・悪玉で見たがるものだ。悪玉・柳沢吉保の後に善玉・新井白石が登場するのが分かりやすい。しかし、民主党が悪玉で自民党が善玉というわけではなし、玉石混淆というところが実際の政治の有様だろう。
前々回の隆光の記事で説明したように、元禄14年という時期は大寺院の再興が幕府によって進められていた。将軍・綱吉、生母・桂昌院、政僧・隆光、側用人・柳沢吉保のカルテットによる文芸復興であった。ここ通法寺もその一つであり、源氏ゆかりの寺院の再興に当たって源氏の後裔である柳沢吉保が石燈籠を奉納したということだろう。
吉保は「新羅三郎二十代後裔」だという。新羅三郎義光の子孫は甲斐源氏・武田氏として繁栄し、後に信玄を輩出する。支流の甲斐一条氏から青木氏、そして柳沢氏が分かれる。柳沢信俊は武田信玄、勝頼のもとで活躍し、武田氏滅亡後は徳川家康に仕えた。信俊の子・安忠の時に館林藩主時代の徳川綱吉とのつながりができた。
安忠の子が吉保で、530石に始まり最終的には15万1200石余にまで出世する。これほどの躍進はなかなか見られない。その財力を文芸と宗教のために使ったのだから、社会的な貢献を果たしたと言えよう。綱吉に阿諛追従して破格の出世を遂げたと悪しざまに言うことなく、文化人として正当に評価すべきであろう。
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