「前九年の役」「後三年の役」は対になって記憶される用語である。中国では「前漢」「後漢」、ヨーロッパでは「前ポンメルン」「後ポンメルン」などが知られている。歴史用語なら時間上の位置を表すが、地名なら空間関係を表す。話を大きくしておいて急に引っ込めるが、前九年の役を平定した源頼義の話をしたい。
羽曳野市通法寺に「源頼義墓」がある。
源頼義は河内源氏の2代目で、平忠常の乱には父の頼信と共に、前九年の役には子の義家と共に活躍し、源氏の勢力を東国に広げた。また、後の執権・北条氏の祖先となる平直方の娘を娶っている。頼義は直方から鎌倉の居館を譲り受け、源氏と鎌倉が結びつくこととなる。
源頼義について『古事談』が次のように伝えている。(国史研究会『古事談』より)
頼義、御随身兼武とは一腹也。母宮仕之者也。件女を頼信愛して、令産頼義云々。其後兼武父、件女の許なりける半物を愛しけるに、其女、己れが夫、我に返せよとて、進みて密通の間産みたるなり。頼義聞此事、心憂き事なりとて、永く母を不幸して失せて後も、七騎の度乗りたりける大葦毛が忌日をばしけれども、母の忌日をばせざりけり。
頼義は随身の中臣兼武は母親が同じ兄弟である。母は宮仕えの者であった。この女を頼信が愛し、頼義を生ませたのだ。その後、兼武の父となる男は例の女の侍女を愛していたが、女が「アンタの彼氏、私に返しな」と言って進んで密通して兼武を生んだ。頼義はこのことを聞いて不愉快に思い、母に孝行することはなく亡くなった後、前九年の役・黄海の戦いに大敗し七騎で脱出した時に乗っていた愛馬・大葦毛の法要はしても、母親の法事はしようとしなかった。
源頼義は母親との関係はぶっ壊れていたが、出羽の清原氏の助勢により前九年の役を平定し、東国武士団と良好な関係を築いていく。頼義の後半生の心を占めていたのは、母への思いではなく、共に苦難を乗り越えた愛しい馬であった。
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