平氏は壇ノ浦の戦で滅んだというが、平清盛の異母弟の頼盛は生きながらえている。大河ドラマの最終回で、鎌倉へ下向している頼盛が源頼朝のことを「鎌倉殿」と呼ぶシーンがあった。同じ一族とはいえ、当然、様々な生き方はある。
蘇我氏も同じだ。大化の改新は蘇我氏が滅ぶことによって始まったのではなく、改新政治の一翼を担っていたのは蘇我一族の一人だったのである。
大阪府南河内郡太子町大字山田の佛陀寺に「仏陀寺古墳」があり、「蘇我倉山田石川麿之墳」の標柱が建てられている。古墳は凝灰岩製の横口式石槨の上部が露呈している。府指定史跡である。
蘇我倉山田石川麻呂は名前が長い。石川麻呂の読みを「いしかわのまろ」「いしかわまろ」のいずれを採るかで名前の長さが違って聞こえる。日本大百科全書(小学館)では、石川と麻呂の間に「の」を入れて読み、今でいう姓は蘇我倉山田石川で名は麻呂だとしている。
祖父が蘇我馬子、父は倉麻呂、伯父が蝦夷、従兄弟が入鹿という、蘇我氏の一員でありながら、蝦夷-入鹿の本宗家と対立し、皇極4年(645)の政変に参加した。政変当日には儀式において上表文を読み上げる役であった。『日本書紀』の記述を読んでみよう。(文部省『日本書紀精粋』昭8による)
倉山田麻呂臣表文を唱(よみあ)ぐること将に尽なむとするに、子麻呂等が来らざるを恐れて、流汗(いづるあせ)身に沃(うるは)ひて、声乱れ手動(わなな)く。鞍作臣怪みて問ひて曰く、何故か掉(ふる)ひ戦(わなな)く。山田麻呂対へて曰く、天皇(すめらみこと)に近くはべることを恐(かしこ)みて、不覚(おろか)に汗流(い)づ。
石川麻呂が読み上げる上表文が間もなく終わろうというのに、襲撃役の佐伯子麻呂が手はず通りに出て来ない。石川麻呂は汗びっしょりで声が乱れて手も震えてきた。蘇我入鹿がこれを不審に思い「どうしてそんなに震えているのだ」と問うた。石川麻呂は「天皇のおそば近くにいるのが恐れ多くて、不覚にも汗をかいてしまいました」と答えた。
この直後に入鹿暗殺は決行された。このクーデターは、我が国の歴史が大きく動いていく画期として人々の記憶に長く残ることとなるのだ。新政権で石川麻呂は右大臣となる。我が国で最初の右大臣である。しかし、栄光は長く続かなかった。大化5年(649)に弟の蘇我日向の讒訴により討伐を受け、飛鳥にある氏寺の山田寺で一族もろとも自害した。
石川麻呂のものと伝えられる墓は、上記太子町大字山田の仏陀寺古墳の他に、岐阜県各務原市指定史跡の「伝蘇我倉山田石川麻呂の墓」が同市蘇原宮塚町2丁目にある。蘇原寺島町1丁目には県指定史跡の「山田寺跡及び礎石」がある。また福井県越前市粟田部町にも「右大臣蘇我倉山田石川麻呂の廟」がある。石川麻呂から53代目の子孫の山田重貞が建立した。石川麻呂末子の清彦が越前に流罪になっていたのである。何が本当なのかわからないが、とにかく「山田」がキーワードになりそうだ。
石川麻呂の死後は、弟の連子の系統が蘇我氏の本流となり、天武天皇の頃に石川氏を名乗った。陽成天皇の時に宗岳(そが)氏に復しているが、その後は歴史に埋没したようだ。
仏陀寺古墳のある南河内郡太子町大字山田は、明治29年までは石川郡山田村という行政単位だった。蘇我氏ゆかりの「山田」と「石川」を兼ね備えている。しかし、太子町立竹内街道歴史資料館『科長の里のむかしばなし』所収「山田に伝わる蘇我倉山田石川麿」では次のような指摘がある。
この古墳を石川麿墓と記す最古の史料は、享和元年(1801)発刊の『河内名所図会』で「山田麿墓山田村仏陀寺にあり」としています。
そう考えると、仏陀寺古墳が石川麻呂の墓だとするのは後世の付会と考えられなくもない。それだけ多くの人に慕われているということなのだろう。クーデター決行に緊張して震えが止まらなくなるような正直でいい人が、無実の罪を着せられて自害に追い込まれる。供養したくなるのは人として自然なことだ。
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