「力及ばずして倒れることを辞さないが、力を尽くさずして挫けることを拒否する」
1969年東大安田講堂に立てこもり敗北した全共闘の学生は、このように壁に書いていた。有名な「連帯を求めて孤立を恐れず」に続くフレーズである。今の学生に革命運動が起こせるようにはとても思えないが、このフレーズが語るところは伝わるだろう。それは、自分が信じた生き方に殉じる心性であり、プライドを懸けた自身との闘いなのである。
本日は、武者の誇りに殉じた武将の話をしたい。
中野区上高田四丁目の宝泉寺に「板倉内膳正重昌(いたくらないぜんのかみしげまさ)の墓所」がある。もと牛込横寺町(新宿区)にあったが、明治41年にここに改葬された。
墓碑に重昌の戒名「劔峯源光大居士」と卒去した「寛永十五戊寅歳正月朔日」の日付が刻まれている。寛永15年は1638年である。重昌は前年に起こった島原の乱の鎮定を仰せ付かっていたのだが、一揆勢の頑強な抵抗により苦戦が続いていた。
見かねた幕府は「知恵伊豆」こと松平信綱を援軍として派遣する。重昌は悔しかったであろうし、焦りもしたであろう。総大将としての面目を失いかねないのだ。
(力及ばずして倒れることを辞さないが、力を尽くさずして挫けることを拒否する)
やはり、このような思いだったに違いない。意を決した重昌は、次のような辞世をしたためた。
こそのあらたまにハゑほしの
緒をしめ、けふハひきかえて
甲の緒をしめ出陣仕候、誠に
うつりかわれる世のならひ、
今更のやうに存候、はや
ううつたち申候
あらたまの年に任せてさく花の
なのみのこらハさきかけとしれ
とらの
正月朔日とらの刻
板倉内膳
去年の新年には烏帽子の緒をしめたが、今日は甲の緒をしめて出陣する。移り変わるのが世の習いというが、まったくそのとおりであることよ。
寅の刻とは午前4時頃である。この後、重昌は一揆勢の籠る原城に総攻撃をかけるが、敵弾に当たって討死を遂げるのであった。
板倉重昌の子孫に備中庭瀬藩の藩主として明治を迎えた家があったが、この辞世は、その陣屋跡地に残る清山神社の宝物として伝えられたものである。
重昌は武者の誇りと幕府の威信を懸けて戦った。できうることは、すべてやったはずだ。力を尽くさずして挫けることを拒否したことは、結果として死が待っていたとしても悔いはなかっただろう。辞世で詠んだとおりに、新年に花と咲き散った重昌の生き様は後世の人々の心を動かしている。
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