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2013/02/01

コメント

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一幻斎

ご丁寧なお返事を頂戴いたしまして
恐縮でございます。
先生もお体お大切になされ、これからも益々のご活躍をお願い申し上げます。

玉山

一幻斎さま
貴重な情報をありがとうございます。祖先や地域の先人を大切にされていることは素晴らしいと思います。どうぞ、これからもお元気でご研究をなさってください。

一幻斎

今、こちらのサイトを拝見している時に、テレビを付けていましたらニュースで、岡山県美作市で…というアナウンスがありました。偶然に吃驚しました。昔、勝山の貞勝さんの夫人の御子孫の旅館に泊まり、大きな石のお墓を何者かに盗まれたとおっしゃっておられました。お福さんというのが夫人のお名前だそうです。私は、以前「日本家系図学会」に所属していまして、機関誌の投稿も6本程させて頂き、『旅とルーツ82』には、三浦氏拾遺と題し美作から備後の国光城へ移ったとの伝承と家譜をお持ちの三浦家へ取材に参った内容と考察を掲載いたしました。画像の化生寺の供養塔へもお参りをし、先三浦氏の墓所を探しましたが初めはさっぱり分かりませんでしたのですが、目の良くない自分ですのに、何故かその時だけ急に遠くの方の墓所群が迫って来るように見え、見つけることがかないました。
実は、自分の母方の高祖父の一人がこの一族出身で、取材もすんなり参りました。なお、この祖先は敵方の尼子家を母に持ち、三浦さんの当時の御当主は、「あの尼子ではないから」と言われまして、調べてみると広島県の旧吉舎町敷地にある寺院大楽寺に過去帳が残る(一本堂という小堂もある)伝承で尼子経久ないしは、同晴久の子孫と伝わっています。
こちらの内容も、『旅とルーツ81』の方へ掲載しています。また、同85号には、宝治合戦で生き延びた三浦泰村の遺児の御子孫について投稿をしました。日本家系図学会は、会長さんの丹羽先生が亡くなり、さらに事務局長の楡井先生も亡くなってからは、退会致しました。
ところで今、リビングの棚に三浦貞宗公の供養塔に自分が参りました際にお線香をお供えした時写したパノラマ写真が立てかけてあります。

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