昨年の大河ドラマ『平清盛』に三浦義明が登場した。ハードボイルドな菅田俊が演じた義明は伊豆に配流されている源頼朝に蹶起を促していた。鎌倉幕府創設に大いに貢献することとなる三浦氏は子孫繁栄し、各地で武門の流れを伝えている。三浦半島に本拠を置く三浦義明の子孫が遠く離れた美作国で活躍したという話を、今回と次回で紹介しよう。
真庭市勝山の化生寺(かせいじ)の境内に「三浦貞宗供養塔」がある。真庭市は岡山県北部にあり旧美作国の一部である。
正面には「高田城主三浦貞宗公」、側面に明徳3年(1392)3月17日に78歳で寂したことと「化生寺殿朝散大夫前野州大守長林祐道大居士」の戒名が刻まれている。貞宗は化生寺の開基であり、朝散大夫は従五位下、野州大守は下野守であったことを示している。義明から次のような系譜で鎌倉時代を駆け抜けた三浦一族である。
三浦義明-義連-盛連-時連-宗明-貞宗
三浦貞宗の本城は、現在の横須賀市の古谷山横須賀城(長峰城)である。城近くの諏訪大神社(すわだいじんじゃ)には、貞宗が康暦2年(1380)3月23日に信州の上下両諏訪明神を勧請したとの由緒が伝わっている。また、貞宗は夢窓疎石とも親交があったということだ。
ここ美作の地においては、貞宗は美作三浦氏の祖、そして、勝山の高田城の築城者として知られている。美作での三浦氏の初見は建武3年(1336)に遡る。この地に地頭職を得て勢力を広げたのだろう。
三浦氏の惣領家は、義明-義澄-義村-泰村と続き、宝治合戦(1247年)で泰村が滅ぼされると、義明-義連-盛連-盛時と続く三浦盛時が三浦介として家督を継承した。そして盛時の系統が惣領家・相模三浦氏として北条早雲に滅ぼされるまで続くこととなる。
一方、美作三浦氏の系譜は次の通りだ。(参考:『岡山県歴史人物事典』)
①貞宗②行連③兼連④範連⑤政盛⑥持里⑦貞明⑧貞連⑨貞国⑩貞久⑪貞勝⑫貞盛⑬貞広
貞勝が備中の戦国大名・三村家親に滅ぼされて勢力は大きく後退したが、この時落ち延びた貞勝の妻は備前の戦国大名・宇喜多直家に再嫁し、後の五大老の一人、宇喜多秀家を産むこととなる。
真庭市横部に「伝先三浦氏墓地」がある。
花筒に三浦氏の家紋である「三つ引き両」が描かれている。先三浦氏とは上記の美作三浦氏のことである。誰の墓かは分からないが、真庭市指定文化財(史跡)として保存されている。花が活けられ、地元の方によって手厚く供養されている。地域の発展に貢献した領主への感謝が感じられる。
次回は「先」三浦氏に対して「後」三浦氏の話である。乞うご期待。
ご丁寧なお返事を頂戴いたしまして
恐縮でございます。
先生もお体お大切になされ、これからも益々のご活躍をお願い申し上げます。
投稿情報: 一幻斎 | 2016/02/09 00:05
一幻斎さま
貴重な情報をありがとうございます。祖先や地域の先人を大切にされていることは素晴らしいと思います。どうぞ、これからもお元気でご研究をなさってください。
投稿情報: 玉山 | 2016/02/07 05:00
今、こちらのサイトを拝見している時に、テレビを付けていましたらニュースで、岡山県美作市で…というアナウンスがありました。偶然に吃驚しました。昔、勝山の貞勝さんの夫人の御子孫の旅館に泊まり、大きな石のお墓を何者かに盗まれたとおっしゃっておられました。お福さんというのが夫人のお名前だそうです。私は、以前「日本家系図学会」に所属していまして、機関誌の投稿も6本程させて頂き、『旅とルーツ82』には、三浦氏拾遺と題し美作から備後の国光城へ移ったとの伝承と家譜をお持ちの三浦家へ取材に参った内容と考察を掲載いたしました。画像の化生寺の供養塔へもお参りをし、先三浦氏の墓所を探しましたが初めはさっぱり分かりませんでしたのですが、目の良くない自分ですのに、何故かその時だけ急に遠くの方の墓所群が迫って来るように見え、見つけることがかないました。
実は、自分の母方の高祖父の一人がこの一族出身で、取材もすんなり参りました。なお、この祖先は敵方の尼子家を母に持ち、三浦さんの当時の御当主は、「あの尼子ではないから」と言われまして、調べてみると広島県の旧吉舎町敷地にある寺院大楽寺に過去帳が残る(一本堂という小堂もある)伝承で尼子経久ないしは、同晴久の子孫と伝わっています。
こちらの内容も、『旅とルーツ81』の方へ掲載しています。また、同85号には、宝治合戦で生き延びた三浦泰村の遺児の御子孫について投稿をしました。日本家系図学会は、会長さんの丹羽先生が亡くなり、さらに事務局長の楡井先生も亡くなってからは、退会致しました。
ところで今、リビングの棚に三浦貞宗公の供養塔に自分が参りました際にお線香をお供えした時写したパノラマ写真が立てかけてあります。
投稿情報: 一幻斎 | 2016/02/05 23:58