『陰翳礼讃』という谷崎純一郎の随筆がある。LEDの光に慣れると少々の光では薄暗く感じてしまう。『陰翳礼讃』はその対極にあって、陰影の美しさを教えてくれる名文である。平凡社の雑誌『太陽』の昭和59年2月号の特集は「陰翳礼讃」であった。古い家屋の障子を通した薄明りなど、美しい写真で日本美を伝えている。
たつの市御津町室津に「室津民俗館」があり、内部が見学できる。ここには、姫路藩御用達の豪商、海産物問屋の魚屋(うおや)があった。
江戸時代からの建物はなかなかないもので、この「魚屋」と室津海駅館の「島屋」(廻船業)の建物が残るばかりである。豪商の家も見ごたえがあるが、VIPが休息した本陣もそれ以上に豪壮だったのではないかと想像する。4か所の本陣跡を写真に収めたので紹介しよう。すべて同じ通り沿いに位置する。
まずは、肥後屋跡である。室津民俗館の魚屋と対面する位置にある。魚屋は脇本陣としても使用されたようだ。
次に、紀伊国屋跡である。
そして、筑前屋跡である。
さらに、肥前屋跡である。
ふつう、宿場に本陣は一つくらいなものだが、室津にはいくつもある。もう少し、調べてみよう。御津町教育委員会『郷土の歴史』に収められている「本陣跡」(広報みつ昭和37年8月10日第125号に掲載)に次のような記述がある。
諸大名や幕府役人、公家貴族などのための特別の旅館を本陣とよんでいる。この本陣が室津には、明和元年(一七六四年)頃には六軒あったようだ。それは、
名村四郎兵衛 肥前屋
名村庄太夫 肥後屋
野本源三兵衛 紀伊国屋
吉田彦太夫 筑前屋
高畠孫九郎 さつま屋
津田弥三衛門 ひとつ屋(一津屋)
以上である。これを見てもわかるように、本陣経営者には当時の名誉を示す苗字を持つことが許されていた。また大部分は帯刀も許されていたとのことである。前にあげた六軒の本陣のうち、原型に近い形でのこっているのは、「さつま屋」と「肥前屋」のみである。
そう書いて、さつま屋の大屋根だという写真を掲載している。本葺瓦の列が乱れているものの、豪壮な造りだったことがうかがえる。
その六軒の本陣も今は標柱を残すのみとなっている。室津民俗館をもとにかつての威容を想像してみる。大名を迎えて賑わう人たち。お付きの者もほっと一息である。おそらく中は薄暗かったのではないか。いや、薄明りが旅の疲れを癒してくれたのだろう。
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