吉川弘文館のシリーズ『敗者の日本史』が面白い。皇位をうかがったという道鏡を扱った巻が最近発売された。道鏡は勝者から見事に敗者に転落した典型的な人物である。しかし前回の配本のテーマである赤穂事件では、誰が勝者だったのか。そして敗者は誰だったのか。
赤穂市有年牟礼の黒尾須賀神社の「義士画像図絵馬及び奉納額」は、赤穂市指定有形文化財(歴史資料)である。
絵馬堂に掲げられている絵馬は、随分色褪せてしまっているものの、文化財としての価値が高いのだそうだ。赤穂市教育委員会が設置している説明板を読んでみよう。
嘉永2年(1849)9月、牟礼東村の「立花氏」の発起で、村の住人らにより奉納された50面が奉掲されており、絵師は京狩野派の菅原永得である。
額面縦約44.5cm、横約38cm、画面縦約36cm、横29.5cm程度が一般的な大きさであり、赤穂義士47名のそれぞれが描かれていたようであるが、吉田忠左衛門の絵馬が欠落している。また、49面の中には仇討前に他界した矢頭長助・萱野三平・橋本久蔵の3名(3面)が「義士一列」の者として含まれている。
旧赤穂郡内に現存している奉納義士絵馬24例のうち、江戸期のものは3例であり、本絵馬が最も古いものとなる。これら義士絵馬を奉納した村は旧幕府領、旧尼崎藩領が多く、旧赤穂藩領はむしろ少ない。義士に対する敬仰が藩の領域を越え、明治期につながる国民的なものであったことをうかがわせる。
江戸期に赤穂事件は、塩谷判官など過去の人物に仮託して描いた「仮名手本忠臣蔵」がヒットしたが、実在の義士の顕彰は幕府への遠慮もあって例が多くはない。その数少ない例のうち、地元における、しかも最古の絵馬として貴重である。
吉良邸討入りの際、表門隊の大将は大石内蔵助、裏門隊の大将は息子の大石主税であった。上の写真に主税の絵馬の位置を記しておいた。右隣は内蔵助の絵馬のはずだが、この時は外されていたのか空いていた。
さて、2010年2月1日の奈良新聞に「赤穂浪士・大石主税の手紙- 高取の民家で発見」という記事が載った。手紙の宛先は、主税の母りくの叔母で、高取藩筆頭家老・中谷清右衛門の妻の香(こう)である。
手紙の日付は元禄15年(1702)閏8月27日。この年の4月ごろ、大石内蔵助は討入りに備えて、妻りくを豊岡の実家へ帰した。主税は母と離れて父と暮らしていた。7月には浅野大学への処分が下り、討入りの方針が確定する。どうやら内蔵助父子の江戸入りを知った香が贈り物をしたらしい。それに対するお礼状が、この手紙である。
手紙は昨年12月12日のNHK『歴史秘話ヒストリア』「せつなき10代 熱き忠臣蔵~赤穂浪士 若者たちの決断~」で取り上げられ、「近ごろ豊岡で暮らす母からの手紙がないので心もとなく思っています」と綴られた部分が紹介された。15歳の少年が母を気遣っている。
12月14日の討入りで本懐を遂げ、伊予松山藩の松平家に預けられていた主税は、当主・定直から母について尋ねられた。主税は感情がこみ上げ涙が流れ、何も答えることができなかった。いったん御前を退いて顔を洗ってから出直し、母への思いを断ち切って事に臨んできたが、今、母のことを訊かれて気持ちが緩み取り乱してしまった、と詫びたという。
2月4日に見事に切腹により果てた。大石主税良金。行年十六。主税は勝者だったのか、敗者だったのか。幕府からお咎めを受けたということで形式上は敗者である。しかし、当代の人々が感心し、そして後世の人々が同情を寄せたということでは勝者がふさわしい。とはいえ、若い命を散らした者に勝者であれ敗者であれ、評価は控えるべきだろう。若者は生きることにこそ価値があるのだから。