岐阜市では、春に「道三まつり」秋に「ぎふ信長まつり」と、戦国時代にアイデンティティを求めているようだ。今年の第41回道三まつりは4月6日、7日だったが、天候が悪くパレードが中止となった。斎藤道三と織田信長の義理の親子が、岐阜の礎を築いた恩人として市民から顕彰されていることに意義がある。
岐阜市長良福光に市指定史跡の「道三塚」がある。すぐ隣の地名は道三町である。
「齋藤道三公塚」「弘治二辰四月廿日」と刻まれている。弘治2年は1556年である。「美濃の蝮」と呼ばれた下剋上の典型。その斎藤道三の最期については、岐阜市教育委員会の説明板が次のように解説している。
弘治二年(一五五六)四月一八日、戦国大名斎藤道三は、その嫡子斎藤義龍(よしたつ)と戦うこととなった。
一般に知られている話としては、道三の実子ではないことを知った義龍が、道三の実子二人を惨殺し、道三を引退に追い込んだうえ戦を仕掛けてきたということになっている。
たしかに、この合戦の二年前、道三は家督を義龍(当時は利尚(としひさ)と名のる)に譲り渡している。しかしながら、この突然の引退は、おそらく家臣団(領内の有力者たち)の手でなかば強制的に行われたものと思われる。家臣の支持を失い隠居を余儀なくされた道三は、最終的に義龍との武力対決に至ったのである。
長良川を隔てて衝突したとされる両軍(長良川の戦い)であったが、もとより数の上で劣勢であった道三方は敗れて大半の将兵が戦死した。道三自身も、四月二十日に城田寺(きだいじ)に逃れようとするところを討ち取られたという。その最後は、長井忠左衛門・小牧(小真木)源太・林主水らの追跡をうけ、くみつかれて脛(すね)をなで斬りにされた上に鼻を削がれたと「信長公記(しんちょうこうき)」などの話の中では伝えられている。六十三歳であった。
道三の遺体は崇福寺(そうふくじ)の西南(現メモリアルセンター内)に埋葬されたが、塚は長良川の洪水にたびたび流された。その後、天保八年(一八三七)、斎藤家の菩提寺である常在寺の第二十七世日椿(にっちん)上人が、この場所に移して現在の碑を建てたものである。
「道三無念の最後」という伝承は住民の間にも残っていたようである。特別な地としてこの塚には畏敬の念が払われ、周囲の開発が進む現在に至るまで守られ続けている。
なるほど、ここは斎藤道三の埋葬地であった。実際の場所はもう少し南の川に近い場所のようだが、岐阜の恩人の悲劇的な死を伝えようとする斎藤家の菩提寺の住職の思いをこの墓碑は伝えている。様式がいかにも近世的だが、道三への思慕は江戸期から続くものだという精神史の史跡でもある。
道三にはよく知られた肖像画がある。国の重要文化財に指定されている「絹本着色斎藤道三像」である。これを所蔵しているのが、菩提寺の常在寺である。
岐阜市梶川町の鷲林山常在寺に「斎藤道三公供養碑」がある。
右の標柱には「稲葉山古城主齋藤道三公塚」とある。墓碑には「妙法蓮華経」の左に「圓覺院殿道三大居士」との法号、右に「弘治第二歳四月廿日」の命日が刻まれている。冒頭で紹介した「道三まつり」は、常在寺での「斎藤道三公追悼式」から始まるそうだ。
昨年3月のテレビ朝日のドラマスペシャル『濃姫』では、姫の父道三を里見浩太朗が重厚に演じていた。蛇の道は蛇、得体の知れぬ織田信長の器量を見抜いたのも、道三の度量の大きさを示していよう。道三と娘婿信長、岐阜をつくった二人は、近世社会を切り開いた大武将であった。レジームチェンジは岐阜から始まった。
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