鹿ケ谷のように陰謀めいた話は、今も昔もごまんとあるに違いない。権力闘争、それが政治の世界である。参院選が近付いているが、安倍政権打倒なぞ夢物語の勢いである。エジプトでは軍のクーデタにより民選のモルシ大統領が解任された。これは先行きが不透明な状況だ。今日は、我が国屈指の陰謀、鹿ケ谷の陰謀の当事者の話である。
廿日市市宮島町の厳島神社の境内に「卒塔婆石(そとばいし)」がある。平清盛ゆかりの神社に清盛を打倒しようとした者の史跡があった。
この史跡は『平家物語』巻第二「卒塔婆流」に描かれている。鹿ケ谷での陰謀が露見し、俊寛、平康頼、藤原成経は、薩摩のはるか沖にある鬼界ヶ島に流された。そこでのお話である。読んでみよう。
康頼入道、故郷の恋しきまゝに、せめてのはかりごとに、千本の卒塔婆を作り、阿字の梵字、年号月日、仮名、実名、二種の歌をぞ書たりける。
薩摩潟沖の小島に我ありと、親には告よ八重の汐風。
思ひやれしばしと思ふ旅だにも、猶ふるさとはこひしき物を。
これを浦に持て出て、「南無帰命頂礼、梵天帝釈、四大天王、けんらう地神、王城の鎮守諸大明神、殊には熊野権現、厳島大明神、せめては一本なり共、都へ伝てたべ。」とて、沖つ白波の、よせては帰る度毎に、卒塔婆を海にぞ浮かべける。卒塔婆を造出すに随て、海に入れければ、日数の積れば、卒塔婆の数もつもりけり。その思ふ心や便の風とも成たりけむ。又神明仏陀もや送らせ給ひけむ。千本の卒塔婆のなかに、一本、安芸国厳島の大明神の御前の渚に打ちあげたり。
はるばる流れ着いた一本の卒塔婆は都に運ばれ、清盛もこれを目にした。さすがの清盛も哀れに思って康頼を赦免するのである。
鬼界ヶ島に俊寛だけ残して康頼と成経が帰京するのは有名な話だ。俊寛は島で悶死し、二人は再び都で活躍することとなる。同じ罪で同じ刑を受けても、その後の人生は天と地である。それだけに、平曲を聴く者は人間の運命の不条理さに涙するのである。
卒塔婆石の向こうに「康頼燈籠(やすよりどうろう)」がある。説明板にはこう書いてある。
鬼界島の配流先から許され帰京した平康頼が神恩を感謝して奉納した燈籠と伝えられています。
そりゃそうだ。千本のうち一本の卒塔婆が厳島に流れ着いたことで運命が開けていったのだ。厳島の大明神には感謝して余りあるものがあろう。それほどに慈しみ深い神の島、それが厳島なのである。
平康頼は平氏打倒の陰謀を引き起こしたが、平氏一族ではなく、もと中原氏だそうだ。尾張国へ目代として赴任した時に、荒れ果てていた野間荘の源義朝の墓に小堂を建て、水田30町を寄付するなど丁重に扱っていた。平氏滅亡後の文治二年(1186)、源頼朝は往年の功を鑑み、康頼を阿波国麻殖(おえ)保の保司に補任している。
人に必要なのは生きる力だという。生きようとしても運命の悪戯によって思うようにならぬことはままある。平康頼の人生を切り開いたのは、神の恩寵か、それとも千本の卒塔婆を作成した自らの努力なのか。天は自ら助くる者を助けたということだろうか。
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