弟が笛なら兄は琵琶の名手、そして父は勅撰集に載るほどの歌詠みである。なんとも文化的な家族であることよ。しかし、明日をも知れぬ境涯は武士の定め、三人とも戦場に散る運命を甘受したのである。兄弟は一ノ谷で討ち取られ、父は壇ノ浦で入水した。
高砂市阿弥陀町長尾に「経政神社」が鎮座している。
経政とは何者なのか。高砂市・高砂市観光協会が設置した説明板を読むと分かる。真新しいので、大河ドラマ「平清盛」放映に合わせて設置したものだろう。
この神社に祀られているのは平家の公達「但馬守平経正(政)たじまのかみたいらのつねまさ」で、平清盛の甥(平経盛の子)、青葉の笛で知られた敦盛の兄にあたる。経政もまた琵琶の名手で、青山という名器を弾くと白龍が現れたという伝説もある。
須磨一の谷の合戦(一一八四年)に敗れ、この地で自刃したと伝えられ、その霊を祀る当社の在るこの地は「但馬守(たじまのかみ)」と呼ばれている。
一の谷の戦場から虎口を脱してこの地にたどりつき、静かにその生を終えたのだという。いや、『平家物語』巻第九「知章最期」では次のように語られている。
修理大夫経盛の嫡子皇后宮亮(こうごうぐうのすけ)経正は助け舟に乗らんと汀の方へ落給ひけるが、河越小太郎重房が手に取籠られて、討たれ給ひぬ。
経正の墓と伝えられるのが、有名なこれだ。
神戸市兵庫区切戸町に「琵琶塚」がある。そう、あの清盛塚に並び立つ巨大な石碑である。
ここにも新しい説明板が神戸市教育委員会と岡方協議会によって平成23年12月に設置されている。やはり大河ドラマ放映に向けての環境整備だろう。岡方協議会は江戸時代に兵庫津の自治を担っていた惣会所の伝統を引き継ぐ組織である。説明文を読んでみよう。
清盛塚と小道を挟んで北西に平面形が琵琶の形をした塚があり、琵琶塚と呼ばれ、江戸時代から琵琶の名手・平経正の墓と信じられていました。平経正は清盛の弟経盛の長男で敦盛の兄にあたります。
明治35年(1902)有志により琵琶塚の碑が建てられましたが、大正時代の道路拡張の際に、清盛塚とともに現在地に移転されました。
碑の裏面には「明治三十五年十一月建之 参議正三位備中権守平朝臣経盛卿嫡子但馬守平経正卿 寿永三年二月戦死」とある。塚は今はないが、「平面形が琵琶の形をした塚」だったということは、前方後円墳である。琵琶の名手であることからの連想で、古墳が平経正の墓とされたのだろう。
一の谷から東に進んだ明石市人丸町に「馬塚」がある。
標柱には次のように記されている。
寿永三年(一一八四)一の谷の合戦に敗れた平氏は西へ落ちた。平経盛の子である平経正(敦盛の兄)の馬を埋めたという。
一の谷で主を失った愛馬がここまで来て倒れたのだろうか。それとも、高砂に落ち延びる途中でこの地で愛馬を失ったのだろうか。
経正の琵琶の腕前はかなりのもので、『平家物語』巻第七「竹生島詣」によると、竹生島で琵琶を弾じた時、感極まった明神が白龍となって出現したという。しかしこの琵琶は島の僧が用意したもので、名器「青山(せいざん)」ではない。
また「経正都落」によると、経正は都落ちに際して仁和寺を訪れ、「もし不思議に運命開けて、また都へ立帰ること候はゞ、その時こそ猶下し預り候はめ」と、拝領していた「青山」を泣きながら返上して西海に赴いた。その後の運命を知っているだけに一層哀切である。
名器「青山」は、琵琶師・藤原貞敏が同じく名器「玄象(げんじょう)」と共に唐から持ち帰った琵琶である。その姿は「青山之沙汰」にこう描かれている。
甲は紫藤の甲、夏山の峰の緑の木の間より、有明の月の出るを撥面に書かれたりける故にこそ青山とは附られたれ。玄象にも相劣らぬ希代の名物なりけり。
この琵琶は、その後持ち主を転々として宇和島伊達家に伝えられ、今は「青山の琵琶」として公益財団法人宇和島伊達文化保存会の所蔵となっている。
琵琶塚には名器「青山」が埋められたとの言い伝えもあるが、琵琶塚が前方後円墳だったこと、移転されていることを考えると、琵琶の埋納はないはずだ。経正は自刃か討死か、そして「青山」の行方は…と謎の多い話だが、まさにそこに魅力があるのである。
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