額田王をめぐって中大兄と大海人の二人の皇子が争ったというのは、あの有名な「野守は見ずや君が袖振る」「人妻ゆゑにわれ恋ひめやも」の歌からの連想であり、史実としては確認できないそうだ。それでも、そういう筋書きの方が面白いことは確かだ。美女と二人の好青年によって演じられる恋物語である。
これと似て非なる話が、下の古墳にまつわる伝説である。
加西市玉丘町字水塚に「玉丘古墳」がある。5世紀前半の前方後円墳で、全長109mは兵庫県下第7位の規模である。北播磨に勢力があった針間鴨国造(はりまかもくのみやつこ)の墓と推定されている。写真は前方部である。
そのような学術的なことは近年の説明板に記されている。説明板手前の石碑は大正15年建立の「玉丘碑表」で、古墳が天皇家ゆかりであることが記されている。大正年間に貴人の墓とは知らずに「塋域(えいいき)を冒せる者ありし」ということで、石碑を建て後世に伝える旨も記されている。
天皇家ゆかりとはどういうことか。角川文庫版『風土記』で「播磨国風土記」賀毛郡の玉野村条を読んでみよう。
玉野の村あり。ゆゑは、意奚(おけ)・袁奚(をけ)二はしらの皇子等、美嚢(みなぎ)の郡の志深(しじみ)の里の高(野)の宮にいまして、山部小楯(やまべのをだて)を遣はして、国造(くのみやつこ)許麻(こま)の女、根日女(ねひめ)の命を誂(よば)ひたまひき。ここに、根日女、已に命により訖(を)へき。その時、二はしらの皇子、相辞(いな)びて娶(あ)はざりき。日の間(ほど)に、根日女老いて長逝(みまか)りき。時に、皇子等大きに哀しみて、やがて小立(をだて)を遣はして、勅(の)りたまひしく、「朝(あした)夕(ゆふべ)に日の隠ろはぬ地(ところ)に、墓を造り、その骨(かばね)を蔵(おさ)め、玉をもちて墓を餝(かざ)れ」と。かれ、これによりて、墓を玉の丘と号け、その村を玉野と号く。
意奚・袁奚の兄弟は履中王統の皇子で、皇位を独占した允恭王統に圧迫され播磨に隠れていた。この二人は譲り合いを大切にする兄弟で、播磨で身分を明かすときにも、皇位に就く折にも「お前が」「いえ、兄さんから」と美徳を示した。
そして、本日の伝説である。皇子は地元豪族の娘・根日女に求婚し、姫は承諾する。問題はここからだ。兄弟は婚約者をめぐっても譲り合いを始めた。ついに姫は年老いて亡くなったという。どんだけ待たせたんや。ひどいやろ。皇子たちは反省して当然です。
皇子たちは「朝に夕に日の当たる場所に墓を造り、姫を埋葬して、玉で墓を飾れ」と命じられた。だから玉丘と呼ぶのだという。
「朝夕に日の隠ろはぬ地」は、「朝日さし夕日輝く木の元に」などと財宝の在りかを暗示する歌を思い出させる。長者伝説ではよく出てくる。ということは、財宝は古墳の副葬品だったということか。事実、玉丘古墳では明治17年に盗掘があり石棺が破壊されているということだ。
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