むかし「瀬戸内海に大きな悪魚がいた」という。その大きさは島ほどもあり、船を沈めて人を食ったという。まったく人を食ったような話だが、そこが伝説の面白さだ。姿は『金毘羅参詣名所図会』巻四に収められており、いかにも獰猛で悪さをしそうだ。しかし、よく見よう。悪魚の腹を突き破って日本武尊(ヤマトタケル)が現れているではないか。そう、こうして瀬戸内には平和が訪れたのである。
香川県綾歌郡綾川町陶に「讃留霊王(さるれお)の墓」がある。近くには讃留王西、猿王北、猿王南という小字も見られる。
今回紹介するのは、日本武尊ではなく讃留霊王が悪魚を退治したのだ、という伝説である。『綾南町誌』の関係部分を読んでみよう。
昔、むかし、讃岐の国が大変乱れていたとき、瀬戸内海に大きな悪魚が出て、人々を苦しめていた。
時の十二代景行天皇は、武殻(たけかいこ)王に命じて、悪魚を征伐させた(悪魚は海賊だろうといわれている)。武殻王とは、景行天皇の皇子で、九州の熊襲を征伐した日本武尊の王子である。
おん年一五歳であった武殻王は、大変苦心して悪魚を征伐した。その功績によって讃岐の国を治めることになり、城山(きやま)あたりに居を構えた。下屋敷が北原(今の猿王)あたりにあったといわれている。
讃岐にとどまる武殻王を、人々は讃留霊王(さるれおう)と申しあげ尊敬してきた。九五年ごろの話である。
北条池のほとり、清浄な地にある塚を昔からサルオウサンと呼んでおり、讃留霊王の墓であるとされている。この塚のそばの地面を踏むと、トントンと音がするともいわれている。塚の下に石室があるのだろうと考えられる。
塚の東の方には多数の陪塚があったという。明治初年、各種の玉類、埴輪、人形等が多数出土している。
讃留霊王は一二五歳まで生きていたとか。讃留霊王の子孫が陶に分封されて、もっぱら土地の開発、池塘(ちとう)の築造など、農業の振興に力をいれた。
悪魚を退治したのは日本武尊ではなく、その息子の武殻王である。武殻王は讃岐に留まったので「讃留霊王」と呼ばれたのだという。しかし、話はそう単純ではない。本居宣長の『古事記伝』29巻景行紀の「讃岐綾君」の注釈に次のように記されている。
或いは此を景行天皇の御子神櫛(カムクシ)王なりとも、又は大碓(オオウス)命なりとも云ひ伝へたり、讃岐の国主の始めは倭建(ヤマトタケル)命の御子、武卵(タケカイコ)王の由、古書に見えたれば、武卵王にてもあらむか。
つまり、日本武尊本人だとも、兄弟だとも、息子だとも伝わるのであって、特定なんぞできないのだ。しかも、「讃留霊王」という呼び名でさえ、宣長は次のように指摘する。
さてさるれいと云は、いかなる由の称にかあらむ、讃留霊と書くは、後人の当てたる文字なるべし。
ということは、讃岐に留まったことに由来する「讃留霊」という名さえ後付けであり、「れるれい」の音のみが過去の記憶を伝えるものなのだろう。讃岐の国生み神話である。
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