日本一の子だくさんは景行天皇だという。『古事記』によると、名前の記されているのが21人、記されていないのが59人、合わせて80人である。世界一はサウジアラビアのイブン・サウド国王で89人ともそれ以上とも言われているようだ。
後醍醐天皇も子供が多い。何人いるのか不詳だが、父帝の人生が波瀾万丈だっただけに子供たちも割を食い、あまり穏やかな人生ではなかったようだ。
米子市福市の会見山安養寺(あんにょうじ)に「瓊子(たまこ)内親王御廟」がある。
瓊子内親王は正和五年(1316)に後醍醐天皇と藤原為子(いし)との間に生まれた。同母兄には尊良親王、宗良親王がいる。元弘の変により父帝は隠岐へ、尊良は土佐、宗良は讃岐へ流された。妹の瓊子が米子に来たのはこの時である。米子市が作成した説明板を読んでみよう。
南北朝時代を偲ぶ安養寺
元弘二年(一三三二年)後醍醐天皇が隠岐島に配流されたとき、皇女瓊子内親王は、父を慕い、童姿(わらべすがた)に身をやつしついてこられたが、隠岐へ渡るのを許されなかった。この寺は、皇女が悲しみのあまり十六歳で髪をおろし、西月院(さいげついん)安養尼(あんにょうに)と号して開かれた寺である。都から後醍醐天皇が念持仏(ねんじぶつ)の阿弥陀如来をさずけ、寺領を与え勅願寺とされた。皇女は、ここで八年間過ごされ、延元四年(一三三九年)八月一日に二十四歳の若さで亡くなられ、ここに墓所がある。寺は、その後江戸時代中期まで尼寺として維持された。江戸時代には寺領一〇〇石となり、芝居興業や富くじなどが許され、近郷近在の憩の場であった。
寺内には、安養尼の木像や後醍醐天皇の画像などが保存されている。
境内に“歯形栗”と言われる栗の木がある。土地の者が差しあげた栗の実を歯にあて、もし春になって芽をふいたならば、父天皇の運が開けるかもしれないと、願いをこめてその栗を土に埋められたところ、不思議にも翌年の春、栗は芽をふき、天皇は都へお帰りになった。栗の実には、くっきりと歯のあとがついていた。何代目かの今の栗にも歯形が残っている。
父帝、そして兄たちが配流の憂き目にあうのを目の当たりにして、自分一人都に残るのはつらかったのだろう。父を慕う内親王が残した伝説が「歯形栗」である。これがその栗の木だ。
歯形を付けても期待通りに芽吹き、父帝は京都還幸を果たした。しかし、瓊子は帰らなかった。政争に巻き込まれるのを避けたのか、仏の道に生きることを決意したからか。それとも、静かに歌を詠みたかったのか。母の藤原為子も歌人、祖父の二条為世は藤原定家から数えて4代目に当たる。歌詠みの家であった。
兄の宗良親王が撰した南朝の勅撰集『新葉和歌集』に瓊子の歌も収められている。巻第十八雑歌下から引用しよう。境内に歌碑もある。
元弘のはじめつかた世の中みだりがはしく侍りしに思ひわびさまなどかへけるよしききて瓊子内親王もとへ申しつかはしける
中務卿尊良親王
いかでなほ我もうき世をそむきなむ うらやましきハ墨染の袖
返し
瓊子内親王
君は猶そむきなはてそとにかくに さだめなき世の定めなければ
「あーやんなっちゃった。もう出家しよっかな」
「何言っとんよ。出家はダメ。世の中どうなるか分かんないんだから」
なかなか気丈な妹だったが、若くして亡くなってしまった。時は流れて歯形栗も4代目の木である。歯形はすっかり薄くなってしまったそうだ。
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