人生楽ありゃ苦もあるさ、と水戸黄門一行が全国を行脚しながら勧善懲悪を行う。国民的な人気の物語であるが、史実とはかけ離れている。史実に基づかなくとも面白いものは面白いのだ。
黄門さまからさらに時代を何百年かさかのぼって鎌倉時代を背景とした似たような物語がある。謡曲「鉢木」に代表される北条時頼廻国伝説である。
岡山市中区湯迫に「最明院」がある。
小さなお堂だが、その由来が気になるところだ。説明板を読んでみよう。
“最明院”は湯迫山浄土寺の境内にあったと伝えられている。
この院の由来は鎌倉幕府五代執権北條時頼(一二二七~一二六三)がその職を退き剃髪して覚了坊道崇と名を改め、かって己が創立した最明寺に閑居したが後に民情を視察するために諸国を行脚した時「見明院」と呼ばれていたこの院に立ち寄ったことから最明寺入道時頼公名に因み、それ以後この院の名を“最明院”と呼ぶようになった。
なお時頼公の高徳を偲んで岡山六代藩主池田綱政は次の句
“爰に残る 名やかぐわしき 雪の朝”
と詠まれ、それにまた、八代宗政は
“今もその 徳の重さよ 笠の雪”
と和詠された。
説明板には「六代綱政は三代継政の誤也」との訂正が付されている。とすると宗政は四代となる。藩主池田氏は、仁政を施したという北条時頼を理想の君主と見ていたのだろう。
北条時頼は名執権との評判が高じて、各地を廻って民情を探ったとの伝説が生成した。基になる史実があったのかが気になるところだが、執権を退いた後に37歳で病没したことから、廻国の余裕などないという見方が主流である。
伝説の広まりは、得宗(北条氏嫡流)領の拡大に関係するとも、時衆の活動によるともいわれている。得宗領では北条氏の支配のありがたさを時頼を例として語ったであろう。時衆の祖である一遍上人の母は大江氏、時頼の正室も大江氏、何らかの関係があると考えてもよいだろう。
時頼ゆかりの史蹟は、これまでに三木市、川崎市で紹介した。川崎市のそれは西明寺というが、時頼ゆかりの寺院には「さいみょう」という名称が多い。これは時頼が最明寺殿と呼ばれていたことによるものである。
岡山の最明院はご覧のように小さなお堂だが、岡山市中区米田に岩間山最明寺山本院という大きな寺がある。行ったことはない。興味深いのは、『岡山市史宗教教育編』に掲載されている縁起の一節である。
建長年中鎌倉ノ副元帥平時頼公巡国ノ際堂塔坊宇大ニ修覆ヲ加ヘラレ之ニ依テ寺号ヲ最明寺ト改唱シ之ヲ中興トナス
副元帥の時頼が来訪し、やはり「最明寺」となったという。岡山の地まで遥々とようこそだが、ゆかりの地は青森県から長崎県にまで及ぶのだから恐れ入る。さすがは天下の副元帥、黄門さまも顔負けである。
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