銭形平次夫妻がフランス語に堪能だったというのは比較的知られた話だ。平次が出かけようとすると女房が声をかけた。その会話。
ジュテモタ? マダモトラン
著名な子孫に6代目とも7代目ともいわれる銭形警部がいる。とっつぁんには拳銃だが、平次親分には、御存知「寛永通宝」である。
美祢市美東町絵堂字銭屋に「長州藩銭座跡」がある。この説明板より左手に鋳銭所があったらしい。長門国には和同開珎を造った「長門鋳銭所跡」もあるが、それは下関市長府安養寺三丁目である。
浅学で寛永通宝は江戸で鋳造されたものとばかり思っていた。江東区亀戸二丁目に亀戸銭座跡のモニュメントがある。しかし、初期には地方でも鋳造されていた。長州藩銭座跡について説明板を読んでみよう。
徳川幕府は寛永14年(1637年)、全国八ヶ所に寛永通宝を造ることを命じました。そのうちの一ヶ所が長州の銭屋で、“銭屋千軒”と呼ばれすこぶる繁盛していました。寛永17年には、貨幣も行き渡り鋳造停止の命がでましたが、その後も隠れて鋳造を行っていたといわれ、銭屋は跡形もなく焼き払われたと言い伝えられています。(中略)昭和61年に鋳銭所設計の絵図面が発見され、発掘調査が実施されましたが、規模は東西140m、南北100mの二重の塀に囲まれていたことが確認されました。全国でも唯一保存の良い銭座跡です。
全国8か所で寛永通宝が鋳造されていたという。和同開珎も各地で造られたようだが、寛永通宝もそうであったか。現行貨幣も大阪、東京、広島で造られている。
寛永通宝を造ったという全国8か所とは、水戸・仙台・三河吉田・信州松本・越後高田・長門・岡山・豊後竹田である。このうち岡山の銭座跡をレポートする。
岡山市北区二日市に「岡山寛永座跡」がある。それを示すものは何もない。
『岡山の貨幣』(昭48)には、その位置について次のように記されている。
この二日市は先年まで岡山刑務所のあったところで、銭座のあとは刑務所の塀の側で、今は稲荷神社となっている。かって烏城古泉会の平井天真堂や水原韻泉が探査したこともあり、るつぼや鉱滓(かなくそ)も出たし、岡山銭も二、三出土したというが、今その所在は確かめられない。
その後、岡山市立中央図書館の建設に伴って発掘され、関連の遺物が出土したようだ。中央図書館2階には切取保存された炉床が展示されている。
岡山の銭座で造られたという岡山銭がこれだ。ただ、出土したものではなく、古銭収集の世界で「古寛永 岡山銭 俯永」と呼ばれるものである。ネットオークションで入手したもので真贋は分からない。
古銭収集も嫌いなほうではないが、現行貨幣に執着するほうが、もっと幸せな生き方ができるのかもしれない。長州藩銭座は貨幣に執着しすぎて密造を行い焼き払われてしまったというから、ほどほどがいいのかもしれない。
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