日本三大鍾乳洞といえば、岩手県の龍泉洞、高知県の龍河洞、そして山口県の秋芳洞である。『雑学・日本なんでも三大ランキング』(講談社α文庫)に載っている。いずれも有数の観光地として知られている。
ひねくれたことに、どうもアンチ巨人とかアンチiPhoneのくせがあって、少々マイナーなものを好む傾向がある。だから秋吉台を訪れた時、秋芳洞ではなく他の鍾乳洞に行くこととした。
そこで、選んだのが景清洞である。伝説の舞台であることに加え、暗闇を進む「探検コース」があり、物語も冒険も楽しむことができる。
美祢市美東町赤の景清洞の洞内に「生目(いきめ)八幡宮」が祀られている。
写真右の赤い幟には、「長門の国 七不思議めぐり」とある。ここは五番所である。ちなみに一番は「土井ヶ浜遺跡」(下関市豊北町)、二番は「附野薬師と俵石」(下関市豊北町)、三番は「姿見の池」(長門市)、四番は「明神池」(萩市)、六番は「弁天池」(美祢市秋芳町)、七番は「なる地蔵」(美祢市)である。旧美東町観光課による選定らしい。
五番「生目八幡」の不思議について説明板を読んでみよう。
生目八幡
平景清が戦で傷ついた目を洗ったら、たちまち良くなったといわれる不思議なしずく・・・?
生目八幡は、今から約800年前に、壇の浦の源平合戦に敗れた、平家の勇将 ・ 平景清は、この地におちのび負傷した目を洞内のしずく(清水)で眼を洗い傷を治し、この恩に報いるため景清穴に「生目八幡」を祭ったといわれております。
又、昔よりこの地方に悪い眼病がはやったとき、この洞内のしづく(清水)で、目を洗いましたところ不思議と眼病が治ったといわれ、現在でも地元の人や信者により、お祭りが催されております。
平景清は、藤原景清、伊藤景清ともいい、また悪七兵衛景清とも呼ばれる。大河ドラマ「平清盛」で藤本隆宏が好演した伊藤忠清の子である。『平家物語』では屋島の戦いの錣引(しころびき)の場面が有名である。
能や浄瑠璃などの主人公として脚色され伝説的な人物像となっている。ゆかりの地は各地にあり、特に宮崎市の生目神社が有名である。景清が源氏への恨みを断つために目を抉り、その眼球を祀ったのがこの神社だという。
景清洞の生目八幡も、宮崎ほど激しくはないが、やはり目との係わりを言い伝えている。それでは、なぜこの鍾乳洞に景清の名が付けられているのだろうか。日本の伝説35『山口の伝説』(角川書店)を読んでみよう。
景清洞には平家の落人伝説がある。平家の落武者大庭(おおば)景宗はこの洞窟に住いを定め、源氏の追討を恐れるふうもなく、この洞前に平家の赤旗をはためかせるという豪の者であった。が、彼と里の娘との間に生まれた景清はまたいっそう武芸に秀で、十五歳で長門地方きっての剣士とうたわれたという。建久九年(一一九八)、これが鎌倉に知れて多数の刺客が放たれたが、景清はもののみごとに刺客らをたおしたので、以後、里の人々は景清の武勇をたたえてこの洞を景清洞とよぶようになったといわれている。洞内には、この伝説にちなむ「景清御殿」「兜(かぶと)かけ」「敵落」「景清の緞帳(どんちょう)」などと名づけられた奇観がある。
これが景清の緞帳である。鍾乳石がなす多様な形状にはユニークな名称が付けられており、洞内を巡る大きな楽しみだ。
大庭景宗は、源頼朝挙兵直後の石橋山の戦いで頼朝を破った大庭景親の父である。系譜も年代も平景清伝説とは合っていないが、そこが伝説の面白いところだ。
有名な秋芳洞は「しゅうほうどう」かと思っていたら「あきよしどう」だった。「滝穴」という普通すぎる名前だったのを、大正15年に来訪した後の昭和天皇が命名したものという。
どうも秋芳洞と景清洞とでは、スケールの大きさが違う。だからこそ景清洞を応援したくなる。美しいのもいいが、謎めいた伝説があるのも魅力がある。
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