芥川龍之介では『蜜柑』という小品が好きだ。文学碑が横須賀市吉倉一丁目の吉倉公園にあると聞いたが行ったことはない。動く汽車の中で見映えのしない少女と向き合う私。私の捉われていた倦怠感を一変させたのは、少女の投げた蜜柑だった。セピア色の風景の中に放物線を描く鮮やかな蜜柑色。映像的なこの作品は一読しただけで強く印象に残る。
鉄道と蜜柑といえば、ずいぶん前に亡くなった父と昔、電車に乗っていた時のことを思い出す。おそらく旅行をしていたのだろう、私たちはミカンを食べていた。とうぜん皮がゴミになるのだが、あろうことか父はそれを座席の隙間に押し込んでしまったのである。
あのミカン皮はどうなったのか。青カビが生えて大変なことになっていないか、心配で仕方がなかった。父は決して悪い人ではなかったが、なぜあんなことをしたのか、ときどき思い出しては不思議に思ったり懐かしんだりしている。
岩国市美和町生見に「新原敏三(にいはらとしぞう)生誕地」がある。
偶然に通りかかり標柱が目に留まったから車を止めてみた。しかし「新原敏三」と読んでも分からない。すると「芥川龍之介実父」とあるではないか。ビッグネームの登場である。
芥川龍之介は、新原敏三とフクの長男として明治25年3月1日に東京で誕生した。誕生の地は中央区明石町10、11附近で、聖路加看護大学前に説明板がある。このあたりには渋沢栄一の経営する「耕牧舎(こうぼくしゃ)」の支店があり、居留地に住む外国人向けに牛乳・バターを製造していた。その責任者が新原敏三であった。
龍之介は生後7か月の時、母の精神異常により、母の実家である芥川家に引き取られ、明治37年に正式に芥川道章(母の兄)の養子となった。「芥川龍之介」の誕生である。芥川家は旧幕臣である。
父・敏三は嘉永3年9月6日生まれ。新原家には藤原鎌足を祖とする系図が伝わるというが詳しいことは分からない。慶応二年にあった四境戦争(第二次長州征伐)で長州藩御楯隊の一員として戦い、左足のかかとに貫通銃創を負った。
明治8年ごろに上京し下総牧羊場(後の宮内庁下総御料牧場)に雇われ、その後、渋沢栄一の経営する「耕牧舎」に勤める。箱根仙石原の耕牧舎が販路を拡大するため東京に出店し、新原敏三がその経営を任せられたのが明治16年。芥川フクと結婚したのも同じ年である。東京での敏三の活躍と旧幕臣の娘との結婚は何らかの関係がありそうだが、出会いの詳細は分からない。
父・敏三は、芥川家に行ってしまった我が子・龍之介を取り戻そうとしたようだ。龍之介の作品『点鬼簿』(大正15年)には次のように描かれている。
僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかった。僕に当時新らしかった果物や飲料を教えたのは悉く僕の父である。バナナ、アイスクリイム、パイナアップル、ラム酒、―まだその外にもあったかも知れない。僕は当時新宿にあった牧場の外の槲の葉かげにラム酒を飲んだことを覚えている。ラム酒は非常にアルコオル分の少ない、橙黄色を帯びた飲料だった。
僕の父は幼い僕にこう云う珍らしいものを勧め、養家から僕を取り戻そうとした。僕は一夜大森の魚栄でアイスクリイムを勧められながら、露骨に実家へ逃げて来いと口説かれたことを覚えている。僕の父はこう云う時には頗る巧言令色を弄した。が、生憎その勧誘は一度も効を奏さなかった。それは僕が養家の父母を、―殊に伯母を愛していたからだった。
僕の父は又短気だったから、度々誰とでも喧嘩をした。僕は中学の三年生の時に僕の父と相撲をとり、僕の得意の大外刈りを使って見事に僕の父を投げ倒した。僕の父は起き上ったと思うと、「もう一番」と言って僕に向って来た。僕は又造作もなく投げ倒した。僕の父は三度目には「もう一番」と言いながら、血相を変えて飛びかかって来た。この相撲を見ていた僕の叔母―僕の母の妹であり、僕の父の後妻だった叔母は二三度僕に目くばせをした。僕は僕の父と揉み合った後、わざと仰向けに倒れてしまった。が、もしあの時に負けなかったとすれば、僕の父は必ず僕にも掴みかからずにはいなかったであろう。
そんな牛乳屋の父は、その後も牧場経営に力を注ぎ、大正8年3月16日にスペイン風邪により東京で亡くなる。ただ、晩年には経営はうまくいっていなかったようだ。
父の死に先立つ大正6年6月27日、日本橋の西洋料理店「メイゾン鴻の巣」で『羅生門』出版記念会が開催された。この時、鴻の巣の主人・奥田駒蔵の求めに応じて揮毫したのが次の言葉である。
本是山中人(もとこれさんちゅうのひと)
龍之介は6月の下旬に岩国を訪れている。明言しているわけではないが、「本是山中人」は山の向こうにある父の故郷に思いを致した言葉ではないかと考えられている。
龍之介には養父・芥川道章の影響が大きいのは確かだ。だが、やはり自分は何者かを考えた時には「長州人」の血を意識したこともあったにちがいない。
ユキモモさま
幕末から維新にかけての長州の方々のご活躍には、本当に頭が下がります。今の日本があるのも、そのおかげかと思います。貴重な情報ありがとうございました。
投稿情報: 玉山 | 2017/02/09 20:38
新原敏三が負傷したのは、慶応2年7月28日、芸州口大野の戦いでした。私の曽祖父の弟も同じ御楯隊で、同じ日に負傷しております。
彼はその年の9月に亡くなりました。25歳でした。郷土を守ることはできましたが、まだ若い彼の心中を思い胸が痛みます。
投稿情報: ユキモモ | 2017/02/09 16:34
wind of junさま
記事をご覧くださり、ありがとうございます。
また、新原家の祖先についてご教示くださり、ありがとうございます。
勉強になります。
投稿情報: 玉山 | 2014/01/27 15:31
こんにちは
新原敏三の先祖は江戸初期の山代一揆の首謀者11人庄屋の中の一人の子孫です。
それらの子孫は後、教育者、指導者などで活躍します。新原敏三もその一人です。
11人の庄屋は死罪に成っていますが毛利家では義挙と認めていたようです。山代代官所の横に立つ毛利家菩提寺に位牌が伝わっていますしそれらの家はその後も続いて幕末を迎えています。幕末期には、山代代官に吉田松陰に影響を与えた人たちが成っております。吉田松陰は義を重んじる人でした。
投稿情報: wind of jun | 2014/01/25 16:58