過去の地震や津波による犠牲者の供養碑は各地にあり、現代へ警鐘を鳴らすものとして見直しが進んでいる。先人の思いを受け継ぎ、今後確実に起きる災害に対する物心両面の備えとすることは大切なことだ。
では、飢饉はどうだろうか。今後、発生することがあるのだろうか。この飽食の時代、物流の活発な時代に。
以前、天保の大飢饉について、東京と福井の史跡を紹介したことがある。今日はさらに遡って、享保の大飢饉である。
岩国市美和町下畑の東大寺に「当村餓死人三百人之墓」がある。
石柱から「享保十七壬子(みずのえね)」の文字を読み取ることができる。詳しいことを岩国市教育委員会の説明板(昭和60年11月の設置当時は美和町教育委員会)で読んでみよう。
享保十七年(一七三二)、ウンカの害による飢饉で、秋ごろから翌年夏ごろにかけ、下畑村(現下畑小学校区)では三百四人の餓死者が出た。
生きのこった村人たちは、この供養塔を建て餓死者の追弔を行った。ここにある小さな五輪塔などは、きちんとした弔いもできず家の近くに葬り、形ばかりの墓石として置いていたのを持ちよったものといわれる。
記録によると当時下畑村の人口は九百四人であり、村民の三分の一が餓死したという悲惨さである。
このとき、山代三十三村で三万四千七百十六人、全国では約二百六十万人が餓死したという。
飢饉で食べるものがない農民達は、いろり端に敷いてあるむしろをはがし、少しずつせんじて食べたり、ワラビやカズラの根を堀って食べ、生きのびようとしたという。
郷土の祖先の苦痛を偲び、忘れることなくこの事実を伝承するとともに、飽食の現代へのひとつの警鐘として受けとめるべきである。
全国で約260万人が餓死したというのは少々間違いで、被災者がその数、餓死者は96万9900人(『徳川実記』)だという。いずれにしても記録的な被害である。
この飢饉を教訓として、青木昆陽先生はサツマイモの普及に尽力する。実は私はサツマイモは嫌いではないのだが好きではない。子どもにあげると喜ぶのでそうすることが多い。しかし、もったいない話だ。いやだから食べない、腹が減ると腹が立つ。苔むした本当に小さな墓を見ると、わがままな自分が悲しくなる。
農薬の普及した現在、ウンカの被害など過去のことかと思ったら、そうでもない。最近は農薬に強くなったウンカが海外から飛来するというのだ。
食糧の確保は生存の必須条件である。食べ物があるのが当たり前の錯覚に気付くことが大切だ。飢饉の史跡を保全することには、たいへん大きな意義がある。
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