冷害として今だ忘れられないのは平成5年の大凶作である。うちもスーパーでタイ米を買ったが、炊いても日本米のようにふっくらとならず、食べるのに困ったものだ。おそらくは江戸時代なら飢饉となっていたのではないか。その江戸時代の飢饉のうち、天保の飢饉の史跡をレポートする。天保の飢饉についてはこちらも参照のこと。
福井市光陽一丁目に「明里の飢饉塚」がある。破損部を修復して過去の災害を将来に語り継ごうとしている。
今も米づくりのさかんな福井県。コシヒカリを主力としてハナエチゼン、酒米の五百万石と続く。その福井を冷害が襲う。天保7年(1836)のことである。その様子を舟沢茂樹『福井城下ものがたり』(福井PRセンター)で読んでみよう。
天保七年の初夏、福井藩領内では五月下旬というのに降雹があり、その後も雨勝ちで農産物に冷害の影響が出はじめた。それに加えて秋には暴風雨に見舞われ大凶作の年になったのである。その年の春、米一俵銀三十三匁であったものが翌天保八年の春には百匁近くに高騰、夏には百三十匁といったように天井知らずの騰貴をつづけた。
福井城下でも飢民が続出、天保七年秋頃から浜町の河原に御救小屋がもうけられ粥の焚出をはじめている。飢えた町人達は衣類を質に入れ、鍋釜、建具までも売り払って米にかえる有様であった。
天保八年にはいると町々に餓死者が出はじめ、西別院や明里処刑場の裏に大穴が掘られて次々に死者が埋められていった。今でも東明里の地蔵堂に飢饉塚があり、次の碑文によって当時の悲惨な状況をしのぶことができる。
「天保七丙申飢饉翌丁酉とし疫病流行、人多く死す、無縁の者を此石仏の下に埋む、因て追福のため建之 干時天保十四癸卯夏四月」
天保大飢饉による福井藩領内の餓死者数は六万人にのぼるといわれているが、これは実に同藩総人口の三十パーセントに当っていたのである。
正直、金さえあれば食べ物は手に入ると思っている。食糧安全保障なんぞ、言葉では分かってるがサッパリ危機感がない。ハイパーインフレ、天候不順に伝染病、そして、戦争。何一つとして、可能性はゼロではない。
柴田勝家とお市の方、橋本佐内と松平春嶽、坂本龍馬と由利公正。福井には戦国、幕末と、歴史ファンにとって魅力あるスポットがたくさんある。しかし、今回紹介したような飢饉の史跡を通して現在の日本を考えることもディープな史跡探訪だと思う。五百万石を磨き上げた旨い酒が呑めるのは本当にありがたいことだ。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。