「万機公論に決すべし」 五箇条の御誓文の有名な文句である。御誓文の草案を作成したのが福井藩の由利公正で、それを修正したのが土佐藩の福岡孝弟であり、最終的に書き上げたのが長州藩の木戸孝允であった。三人の手を経て文案は様々に変更されているのだが、万機公論に決す、というのは共通している。では、起草者の由利公正は何を手掛かりに書いたのか。
福井市照手一丁目に「莨屋(たばこや)旅館跡」がある。
慶応三年(1867)秋、越前に来た坂本龍馬は後藤象二郎の手紙を届けるため松平春嶽に会った。その後、すでに面識のあった由利公正にも会おうとしたが、公正は謹慎中だという。そこで、目付を付けるという条件で藩庁の許可を得て、自分の泊まる莨屋(たばこや)に公正に来てもらった。11月2日朝8時ごろである。その時の様子を『由利公正のすべて』(新人物往来社)所収の木村幸比古「由利公正と坂本龍馬」で読んでみよう。
今後の計画は如何(いかん)じゃと尋ねると、これはまだ決せんが先づ戦はせぬ積りじゃ、というから我より戦をなさぬでも彼より求めたら逃げる乎(か)、イヤそれは出来ぬという。然らば不慮に備えねばならぬ。龍馬曰く、金もなく人もなくて至極難儀である。私の言うのに、天子天下のために政(まつり)をなさる。天下の民は皆天子の民である。天下安寧(あんねい)のために財を散ず、財則安寧の具なり、何ぞ財無く人無きを憂えんやだ。
坂本曰く、われそんな事を言うと思うて態々(わざわざ)来たは、皆言えん夫(それ)から名分財源経綸の順序まで、予て貯えた満腹の意見を語り、夜半九ツ(十二時)過るまで我を忘れて咄(はな)した。
則ち金札を発行せざれば、今日天下の計画は出来ぬという事も委しく語り、当時自分は幽閉人なれば、飛び立つ如く思うても出京はならず、全く坂本に依頼した事だ。坂本は明朝出立するといって写真をくれた。(『由利実話』)
11月13日夕刻に、由利公正は家老の別荘にて龍馬との会見について説明した。その帰途、川を渡る途中で懐に入れていた龍馬の写真を落としてしまった。すぐに探したものの見つからない。その二日後に龍馬は暗殺されるのであった。
財政の確立のために「金札」発行は不可欠だと語り合ったようだ。新政府で財政を担当した由利公正は、翌慶応4年(明治元年)5月から「太政官札」を発行する。全国に流通する紙幣としては日本初であった。
さて、冒頭で課題として残しておいた「万機公論に決す」のルーツである。坂本龍馬が慶応3年6月に示した「船中八策」に「万機宜しく公議に決すべき事」とある。龍馬と公正の考えは、五箇条の御誓文、太政官札として見事に実を結んだのだった。
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