4本前の記事で太田・絵堂の戦いを書いたが、長州俗論党の首魁・椋梨藤太のことが気になり始めた。明治維新を成し遂げた正義党を弾圧したので、すっかり悪役扱いだが、彼だって長州藩の安泰を願っての行動だったに違いない。
歴史は敗者に冷たい。敗者でありながら判官贔屓として同情を集めた源義経こそ幸いである。その敗者義経に敗れた者の話をしたい。平家ではなく木曽義仲である。いや正確には義仲の遺臣たちである。
尾道市向島町に「覚明神社」が鎮座する。
覚明は木曽義仲の右筆で、義経でいえば弁慶に近い存在である。義仲と運命は共にせず、鎌倉その他で活躍し、平家物語成立に大きな影響を与えたといわれる。その覚明が義仲の子を連れて尾道の対岸にある向島に逃れ来たという。尾道市(設置当時は向島町)教育委員会の説明板には次のように記されている。
元暦元年木曽義仲は江州粟津ケ原で敗死し、太夫坊覚明は木曽義重及び家臣30余名を伴い、川尻のこの地覚明島に上陸し、これ等の家臣団は、この地に住み土地を拓き寺社を再建し、農耕、治水灌漑に力を尽し、その後一族の自立を見届け太夫坊覚明と義重は信州に帰えり、義重は安曇野の地で一城の主になっているようである。その遺徳を偲び木曽義仲・義重・覚明を祀ったもので昔は祭礼には子供相撲を催していた。
義仲が戦死したのは元暦への改元前なので正確には寿永三年となる。木曽義重とは義仲の二男とされる人物で、信州の名族仁科氏の祖である。義重と覚明の主従は信州に帰還し、その他も一族が向島の地を開拓したという。
今も向島には「木曽」姓が多い。木曽義仲との関連はどこまで史実を反映しているのか詳らかにはできないが、木曽一族の祖先伝承としてアイデンティティを確立する役割を果たしたことは間違いない。落人伝説に似ているが、平家の落人のように山深くはない。
陽光きらめく海の瀬戸内と晴嵐梢を鳴らす山の信州。距離もイメージも離れている気がするが、おそらく今の私の思い込みに過ぎない。意外な発見がある。これが史跡探訪の楽しみである。
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