JR山陽本線に上道(じょうとう)駅がある。昭和61年開業の新しい駅なのだが「上道」という地名はかなり古い。備前国府が置かれた上道郡は備前国の中心地であった。ここを本拠地としたのが上道(かみつみち)氏である。有名な吉備真備は下道(しもつみち)氏で、どちらも吉備氏の有力氏族である。同じ吉備地方でも都に近い方が上道で、遠い方が下道である。
岡山市中区賞田に「賞田(しょうだ)廃寺跡」がある。国指定史跡である。
ここは少し高い場所にあって、たいへん眺めがよい。7世紀中頃、在地豪族の上道臣(かみつみちのおみ)によって造営された。上道さんも同じような風景を愛で、我が世の春を楽しんだことだろう。岡山市教育委員会が設置した説明板を読んでみよう。
創建時は出土した瓦の量から小さな建物と考えられます。7世紀後半には金堂が、8世紀中頃から東塔と西塔が建てられて、東塔と金堂が接近した変則的な双塔式伽藍として整備されま した。東塔と西塔には凝灰岩の切石を使用した壇上積基壇(だんじょうづみきだん)が築かれています。これは宮殿や畿内の有カ寺院に採用される格式の高いものです。地方寺院ではきわめて珍しく、寺が大変栄えていたことがわか'り ます。高くそびえる二つの塔は朱色に彩られ、遠く道行く人々の目をも引きつけたことでしょう。
写真は金堂、左手奥に東塔の跡が写っている。凝灰岩の壇上積基壇という格式の高さは、上道氏の中央との密接なつながりを意味している。
最も著名な人物は、上道臣斐太都(かみつみちのおみひだつ)である。彼は天平勝宝9歳(757)の橘奈良麻呂の変で重要な役割を果たした人物である。時の権力者は藤原仲麻呂。橘諸兄を失脚させ独裁を強めつつあった。これに対し諸兄の子、奈良麻呂は不満分子を集めて仲麻呂打倒を計画した。それを仲麻呂に密告したのが、上道臣斐太都だったのである。
斐太都は功により15階級特進の栄誉を授かり従四位下となった。さらには中衛少将、備前国造にもなった。8世紀中頃に東塔と西塔が畿内級の格式で建てられたのも彼の活躍によるものだろう。
さて、この賞田廃寺、地名からそう呼ばれているだけで、格式の高かった当時は何と呼ばれていたのか不明である。ただ、発掘調査で「上道」と線刻された瓦が出土しており、上道郡随一の寺院として郡名を冠していたとも考えられる。
近くの湯迫(ゆば)には「浄土寺(じょうどじ)」という歴史ある寺があるのだが、もしかしたら「上道寺(じょうとうじ)」の後身かもしれない。次回は、その浄土寺を訪ねるとしよう。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。