首都移転論議を聞かなくなって久しい。東京五輪の開催決定により、移転を云々することが祝祭ムード盛り上げに水を差す結果になりかねない状況である。これで当分の間、東京は首都であり続けるだろう。その意味で石原都知事は大きな仕事をした。
桜井市大字太田、辻、東田の辺りに「纏向(まきむく)遺跡」がある。
写真には、三輪山、巻向(まきむく)駅、そして発掘調査が行われている田んぼを収めている。この写真の左方は2009年に「卑弥呼の宮殿跡か」と話題になった大型の高床式建物跡が見つかった場所だ。
邪馬台国の位置については状況証拠が揃うばかりで決定的な物証は得られていない。しかし発掘の成果を聞けば聞くほど、ここに宮殿があって、私と同じように卑弥呼が三輪山を仰ぎ見ていたような気がしてならない。
『魏志倭人伝』は次のように記している。日本史を習えば必ず出てくる有名な部分の引用である。(『詳説日本史史料集』山川出版社)
其の国、本(もと)亦男子を以て王となす。住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐(こうばつ)して年を歴(へ)たり。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼(ひみこ)と曰(い)ふ。鬼道(きどう)を事事とし、能(よ)く衆(しゅう)を惑(まど)はす。年已(すで)に長大(ちょうだい)なるも、夫壻(ふせい)なし。男弟(だんてい)あり、佐(たす)けて国を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢(ひ)千人を以て自(みずか)ら侍(じ)せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞(じ)を伝へ居処に出入す。宮室・楼観・城柵(さく)、厳(おごそ)かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。
宮室・楼観・城柵が厳かに設けられていたのが、ここだったのだと思いたい。それが真実ならば、ここは我が国で最初の統一権力の中心地、つまり首都である。
首都において交通網の中枢に位置する駅を中央駅という。現代にあっては東京駅であり皇居にも近い。不思議なことに卑弥呼の宮殿近くにも巻向駅がある。古代にあっては巻向駅が中央駅としての機能を担っていたのか。古代に鉄道があるわけねえだろ、というツッコミは承知で空想に遊んでいる。
近くに桜井市立纏向小学校がある。明治7年創立の歴史ある学校である。校歌は「うずまく光 纒向の 早く開けた わが郷土」と歌う。まさに、そのとおり。我が国で最も早く開けた場所だと誇りをもって高らかに歌ってほしい。
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