『八重の桜』を見なくなってしまった。会津戦争がドラマのクライマックスだったように感じる。このような輩がいるから視聴率が伸びないのだろう。申し訳ない。しかし、半年でかなりの収穫があった。
まずは、松平容保と彼が巻き込まれた政治状況。長州を悪役にしながら分かりやすく描かれていた。次に、「什の掟」。ならぬことはならぬものです。教育界では生き続けている。最後に、西郷頼母の人生。彼の家族の悲劇は白虎隊以上の衝撃だった。それを背負いながら生き抜いた西郷の思いとは…。もっと知りたくなってきた。
今日は西郷頼母ではなく、彼の養子・四郎の史跡である。
尾道市東久保町に「西郷四郎逝去之地」の石碑がある。その右には「姿三四郎記念碑」との木柱が、左方には西郷四郎の像が立つ。
私は高校の武道で柔道を選択した。正直、痛いのが嫌いなので楽しくはなかったのだが、同じ組むなら柔道部の相手がうれしいのだった。なぜなら、きれいに投げてくれるので受身がしやすい。素人同士だと単なる取っ組み合いで怪我のもとだ。
生兵法にも届かぬ程度だから、柔道の歴史もよく知らない。とりあえずは説明板を読んでみよう。
西郷四郎先生は日本柔道界の奇才で、嘉納治五郎師範が講道館を創設した頃、それを助けて日本柔道を大成した人です。小柄な体躯でしたが、その特技「山嵐」の大業は天下無敵の称がありました。
小説・映画で有名な「姿三四郎」は先生がモデルでした。大正九年病気療養のため尾道に来て、吉祥坊(浄土寺の末寺で現在は廃寺)に仮寓し、養生につとめていましたが、大正十一年十二月二十三日五十七歳でなくなりました。
昭和四十六年晩秋
西郷四郎先生五十回忌追悼法要委員会
なるほど「姿三四郎」か。それなら知っていると「柔道一直線」を思い浮かべているのである。山嵐と地獄車とはどう違うのか。どうも、今日の史跡は解説が無理なようだ。
西郷四郎は会津藩士志田家の出身。明治17年、すでに長男を亡くしていた旧会津藩家老の西郷(当時の姓は保科)頼母の養子となり保科四郎となる。西郷家再興が赦されてからは西郷四郎と名乗った。
嘉納先生の講道館で活躍したのち柔道界から離れ、大アジア主義を唱えて長崎で活動した。孫文らとともに写っている写真もある。晩年は妻の親戚がいた尾道で過ごしたということだ。
亡くなった大正11年は1922年。2012年7月28日に西郷四郎先生90周忌法要が行われ、翌29日には「第8回会津若松市・尾道市少年親善柔道大会」が行われたとのことだ。『八重の桜』の史跡は西日本にはほとんどないものと思っていたが、今回は予想外の発見であった。
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