小学生の頃、偉人伝を何冊か読んだ。どうして宮本武蔵を選んだのか覚えてはいないが、武蔵が武者修行の旅に出て、次から次へと天下の兵法家を倒していく物語は繰り返し読んだので、よく記憶に残っている。だが、お通のことは知らなかった。大河ドラマ『武蔵MUSASHI』で米倉涼子が演じるまでは。
姫路市花田町小川にお通公園があり、「お通」の像が武蔵を追っている。ここは市川に架かる新小川橋の東詰に位置する。
お通は武蔵の幼馴染で恋人なのだが、武蔵は正面からお通を愛することができない。その微妙なすれ違いが小説の面白さである。さすがは大衆小説の大家、吉川英治の筆致は見事である。小学生向けの伝記には登場しないはずだ。
武蔵が剣の道に生きようと姫路の城下を離れて東に向かう。花田橋を渡りかけると、女が袂(たもと)をつかむ。お通であった。連れて行けというお通と修行の身だからと拒む武蔵。一途なお通の願いに武蔵はうなずいてしまう。お通は安堵し、暇乞いと旅支度のため、いったんその場を離れた。ところが、戻ってみると…。吉川英治『宮本武蔵』地の巻「花田橋」の章である。
浅黄の脚絆(きゃはん)に、新しいわらじを穿(は)いて、市女笠(いちめがさ)の紅い緒(お)を頤(あぎと)に結んでいる。それがお通の顔によく似あう。
だが――
武蔵はすでに其処にはいなかったのであった。
「ゆるしてたもれ」という文字を残して武蔵は去っていた。花田橋の別れの場面である。武蔵とお通はすれ違いながらも、心では互いを求めている。兵法家との戦いが見所の剣豪小説のみならず、一級の恋愛小説でもある。
新小川橋は姫路から篠山を通って京都亀岡を結ぶ国道372号の一部である。お通も京へ上ったのだろうか。とはいえ、花田橋の別れもお通自身もフィクションである。だが、そうとは思えないリアルさがあるのは、吉川英治の筆の力とお通像の制作者、橋本堅太郎の芸術性の高さのおかげである。
橋本堅太郎氏は平成23年に文化功労者に選ばれている。今年9月7日には会津若松市の鶴ヶ城三の丸に新島八重を顕彰する「八重之像」が完成し除幕式が行われた。この制作も橋本氏による。日本を代表する小説家と彫刻家のコラボ、それが「お通」の像である。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。