「石橋を叩いて渡る」のと「危ない橋を渡る」のとでは、まったく意味が違う。実際には危ない橋を渡っていることの多い日常生活ではあろうが、時には石橋を叩いて渡るくらいの慎重さが必要だ。石橋はそれほどまでに強固なものだ。人の力では壊れない。だが自然の猛威にはかなわない。
姫路市御国野町御着の御国野公民館の裏に「天川橋(あまかわばし)」がある。橋の上を渡れるが下には川が流れていない。
美しい石の橋である。なぜここにあるのだろうか。姫路市教育委員会の説明板を読んでみよう。
姫路藩が文政一一年(一八二八)にこの地より南西二〇〇メートルの旧西国街道の天川に架橋した総竜山石製の太鼓橋。全長二六.六メートル、幅四.四五メートルで、高さは約五メートルで橋脚五本。印南郡石工瀬助・仲右衛門の作。姫路藩儒者近藤顧一郎撰の銘文が刻まれてある。橋の東北詰めには高札揚があった。昭和四七年九月九日の出水で中央部橋脚が崩れ橋桁が落下したため撤去し、昭和五三年一〇月現在地に移設保存した。高さは地形に合わせて低くしてある。地形中央部の低いところは御着城の濠跡。
天川は姫路市、高砂市を流れる二級河川である。現在は国土交通省の川の防災情報や兵庫県の河川監視システムによって、水位や流れの様子をリアルタイムで把握できる。試みに現在はどうかとアクセスしてみた。-0.33mと水位はずいぶん低い。
かつて橋の架かっていた場所が下の写真だ。その下は崩落以前の現役時代の石橋である。普通の水位はこのくらいなのだろう。
ここは西国街道の一部だった。道は様々あるが、どこで川を渡るかでルートは限られてくる。それだけに旅人の意識に上りやすい場所、それが橋である。
ここをどんな人がどのような思いで渡ったのか。お伊勢参りの旅人も、国事に奔走する志士も、出征する兵士も渡った橋だったのだろう。
石材の竜山石は、近くの高砂市で採れる流紋岩質凝灰岩で、中生代白亜紀(8000万~9000万年前)の火山活動で噴出した火山灰などが固まってできたものだ。加工しやすく風化に強い優れた石材である。色合いの美しさも特長だ。
この橋を賛美するという漢詩が標柱に刻まれている。撰者の近藤顧一郎は山崎闇斎の崎門学派に連なる儒者で、三田藩の10代藩主・九鬼隆国が設立した藩校・造士館の教授にもなっている。漢詩の読み下しはできないが、原文は調べることができたので書いておく。
誰命天川名 豈問支機在 虹梁飛架空 昴々浮霞彩 截漸々之石 驛路度千載
文字から推測すると、天の川から連想した美しい光景を描き、末永い利用を願っているように思える。橋そのものも美しいが、この美しい文章がいっそう価値を高めている。姫路藩の公共事業担当者は、なかなかセンスがある人だったようだ。
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