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ソ連はとっくの昔に崩壊し、中国でも社会の矛盾や民衆の不満が顕在化してきた。日本共産党は数年前、自民党対民主党の二大政党化が進む中で議席数は退潮傾向を示していた。歴史の終わりが近付いているかように見えたが、なかなかどうして今やコミュニストは健在である。
日本共産党は、7月の参議院選挙において改選3議席から8議席へと大躍進し、野党では唯一気を吐いた。今回の特定秘密保護法案に対しても、強行採決は「暴挙」だと徹底的に反対している。
港区南青山二丁目の青山霊園に「片山潜之墓」がある。
日本最大のコミュニストは片山潜である。なぜなら潜はレーニンの棺を担ぎ、潜の棺はスターリンに担がれ、潜自身はクレムリンの壁に葬られているのだ。ソ連を国際共産主義の本家と見なすならば、潜ほど丁重な扱いを受けた日本人はいない。
したがって日本に片山潜の遺骨はない。ではこの墓は何か。墓碑の側面の文字を読んでみよう。
片山潜ハ岡山縣美作國粂郡弓削町ニ産レ昭和八年十一月五日露国モスクワ市ニ於テ逝去ス
昭和十八年三月 岩﨑清七建之
片山潜は、現在の岡山県久米郡久米南町羽出木に、安政六年(1859)に生まれた。明治34年(1901)に日本最初の社会主義政党「社会民主党」を結成(即日禁止)、身辺の監視が強まって大正3年(1914)にアメリカに亡命、大正10年(1921)にはソ連に入った。コミンテルンの幹部として活躍して昭和8年(1933)にモスクワで亡くなった。
潜の墓を青山霊園に建てた岩﨑清七は、潜の親友で東京瓦斯(ガス)の社長を務めた実業家である。二人は攻玉社(現在の攻玉社中学校・高等学校)で学んだ仲でもあった。岩崎清七商店のウェブサイトによれば、昭和15年(1940)に中華民国との和平工作に動いている。
清七の願いもむなしく戦争は対米英戦へと拡大していく。昭和18年3月に清七は、親友・片山潜の墓を建てた。戦争の泥沼にはまってしまった今の日本を、潜なら何と評するだろうか。おそらくは、そんなことを思いながら、この墓に手を合わせたのではなかろうか。
ご教示ありがとうございます。自由な議論をしていく中で、漸進的な社会改良を目指す。そんな政党であってほしいものです。
投稿情報: 玉山 | 2015/05/14 22:20
共産党は決していいものではありません それを肝に銘じていなくては それは 片山潜氏の係累につながる あるご家族の言です
投稿情報: 本当のことを | 2015/05/14 03:13