大平正芳首相が亡くなった時のことは記憶がある。選挙中の事であり大騒ぎになったものだ。現職のまま亡くなった内閣総理大臣は5人いる。大平から遡ると、犬養毅、加藤高明、加藤友三郎、原敬となる。うち、犬養と原は暗殺である。大平と二人の加藤は病死である。加藤高明は普通選挙法を成立させたことで有名だが、もう一人の加藤首相はどのような人だろうか。
港区南青山二丁目の青山霊園に「内閣総理大臣元帥海軍大将正二位大勲位功二級子爵加藤友三郎墓」がある。
第21代内閣総理大臣の加藤友三郎は、広島県ゆかりとしては初めての首相である。大正11年(1922)6月12日から翌年8月24日までの440日間の在任である。最近の首相では野田さん、菅さんより短いが、森さん、福田さん、麻生さんよりも長い。
在任中には、ロシア革命への干渉のため出兵していたシベリア派遣軍の撤退を完了させ、ソ連代表ヨッフェとの間で国交正常化に向けて予備交渉を開始した。また、ワシントン海軍軍縮条約に基づいて主力艦の解体や人員整理を実行し、陸軍においても「山梨軍縮」と呼ばれる人員整理を断行した。
加藤は日本海海戦を東郷平八郎と共に戦い、海軍大臣も務めた軍人であるが、協調外交を推し進め、その評価は高い。憲政の神様、尾崎行雄は『日本憲政史を語る(下)』(モナス、昭13)で次のように評している。
彼はながい海相の任期中に、矛盾した二つの大事業をやった。一つは有名な八八艦隊建造の海軍拡張計画であり、もう一つはワシントンにおける海軍縮小会議である。彼は軍拡と軍縮との両刀をつかって、しかも何れの場合にも、世間から好評を受けたのだから、時勢の変化とはいひながら、妙なものである。
(中略)
議会における加藤首相の応答ぶりを見ると、歴代の総理大臣中、おそらくその右に出るものはなからうと思はれるほど、鮮やかなものであった。伊藤公や大隈侯すら、加藤大将には及ばなかった。況んや他をやである。
八八艦隊とは、アメリカの海軍力に対抗するため戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を建造しようとする軍拡計画で、大正9年(1920)に原敬内閣の海軍大臣として加藤友三郎が予算化したものである。翌年に開かれたワシントン会議には首席全権として出席し軍縮に協力した。バランス感覚のある軍人であった。
加藤内閣に対して批判的だった憲政会(加藤高明総裁)は「残燭内閣」と揶揄した。燃え残りのローソクだというのは、加藤首相が細身だったことと、民心に飽かれた(と憲政会が思っている)政友会を基礎としているから長く続かない内閣だという意味だ。消える間際のローソクがひときわ明るく燃えるようなものだと言いたいのだ。
政権奪取のための批判は昔も今も変わらない。それにしても、本当に加藤首相の命が燃え尽きてしまうのだから気の毒なことこの上ない。死因は大腸がん、享年62、8月24日のことである。
それから1週間ほどして関東大震災が発生する。アメリカをはじめ各国から援助が届けられた。ソ連も援助の手を差し伸べてくれたが、政府は断ったそうだ。加藤首相ならどのように対応しただろうか。
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