ドラマではなく「華麗なる一族」は実在する。政財界で活躍し、血脈で結ばれた人々のことである。その代表的人物が麻生太郎氏であろう。内閣総理大臣としては長くなかったが、高速道路土日休日1000円という偉業は長く記憶に留めてよいだろう。麻生氏の祖父は吉田茂、曽祖父は牧野伸顕、高祖父が大久保利通である。本日はひいおじいさんの牧野伸顕のお話である。
港区南青山二丁目の青山霊園に「牧野伸顕夫妻之墓」がある。牧野伸顕は大久保利通の二男で生後間もなく牧野家の養子となった。妻の峰子は三島通庸の娘である。すべて薩摩藩ゆかりの人々である。
牧野は明治から大正にかけて、主に外交面で活躍し、昭和になってからは内大臣として昭和天皇の厚い信頼を得た。リベラルな穏健派であった。そのためか、二・二六事件では君側の奸として襲撃されるが難を逃れた。
外交面での最大の功績は、1919年(大正8年)のパリ講和会議における人種差別撤廃の提案である。牧野は次席全権として会議に参加し、国際連盟委員会で演説した。
提案の背景には、米国などでの日本人移民排斥問題の解消と欧米中心の連盟設立への危機感があったという。牧野はどのような提案をしたのか。近代デジタルライブラリーで公開されている「内田伯ノ外交」という小冊子には、次のように記されている。
人種差別撤廃案
第一
各国民ノ平等ハ国際連盟ノ基本的原則ナルニ鑑ミ締約国ハ連盟ノ総テノ人民ニ対シ如何ナル点ニ於テモ其均等公正ノ待遇ヲ与ヘ其ノ人種又ハ国ノ如何ニヨリ法律上或ハ事実上何等ノ差別ヲ設クルコト無カルベキヲ約ス
右ノ一ヶ条ヲ国際連盟規約ノ本文ニ加ヘンコトヲ提議ス(大正八年二月十三日)
第二
国民平等ハ国際連盟ノ根本主義ナルヲ以テ締約国ハ他ノ国際連盟加入国民ニ対シ総テ平等且公平ノ待遇ヲ付与スル主義ヲ是認スルコトヲ約ス
右一ヶ条ヲ規約ノ本文中ニ加ヘンコトニ譲歩ス
第三
「各国ノ平等及其国民ニ対スル公正待遇ノ主義ヲ是認シ」ノ一句ヲ規約前文中ニ挿入スルコトニ譲歩ス(大正八年四月十一日)
第四
他日ノ機会ニ重ネテ提議スベキコトヲ留保シテ本問題ノ提議ヲ撤回ス(大正八年四月二十八日)
議長の米国大統領ウィルソンは、植民地を持つイギリスに配慮して提案を取り下げるよう要求したが、牧野は強く採決を求め、ついに認められた。16名の出席者の賛否は次のとおりであった。
賛成11名(フランス2名、イタリア2名、ギリシア、中国、セルビア、ポルトガル、チェコスロバキア、日本2名)
反対5名(イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニア)
ところが、議長ウィルソンは、全会一致でないと案件を不成立とした。これに対し、牧野はこれまでにも多数決で決定したことがあると注意を促し、「日本ハ其ノ主張ノ正当ナルヲ信ズルガ故ニ機会アル毎ニ本問題ヲ提起セザルヲ得ズ」と述べ、日本の主張と賛否の数を議事録に記録するよう求め、ウィルソンに認めさせたのである。
全権として牧野伸顕は米国大統領に対して正々堂々と意見を陳述した。正義の国、日本はその後中国とも連帯して、欧米の植民地支配に反対した。そんな歴史もありえたかもしれない。しかし、その実態は日本自身が朝鮮や中国に対して帝国主義的に振舞っており、外に向かって言うほど立派ではなかった。
牧野自身は激動の戦前戦中を生き抜き、戦後の昭和24年1月25日に亡くなった。享年87。最期を迎えた地は柏市十余二(とよふた)である。戦争末期には終戦について相談するため政府高官がたびたび訪れていたという。
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