初めて「ゆりかもめ」に乗った時には驚いたものだ。何しろ運転士も車掌もいないのに電車が走るのである。未来都市というものはこれであったか。あの頃の未来にボクラは立っていたのだった。
古川柳に「公家の子をころしかもめの名が替り」というのがある。公家の子が殺されたので、かもめの名が変わった、というのである。新しい名は「都鳥(みやこどり)」だ。電車ではなく鳥類の「ゆりかもめ」は、『伊勢物語』に登場する名にし負う「都鳥」なのである。
そうならば、電車の名は「みやこどり」にすればよさそうだが、「都をどり」と間違えるからか、濁音が入ることで爽やかさに欠けるからか、「ゆりかもめ」である。
殺された公家の子の名は「梅若丸(うめわかまる)」12歳。父は吉田少将惟房卿である。人買いにかどわかされて、はるばる東国へ下ってきたが、病にかかって足手まといとなり、隅田川のほとりで捨てられた。梅若丸は息絶える前に「尋ね来て問はゞこたへよ都鳥隅田川原の露と消えぬと」と辞世を残した。以来、かもめは「都鳥」と呼ばれるようになったという。
墨田区堤通二丁目の梅柳山木母寺(もくぼじ)の境内に「梅若(うめわか)塚」がある。都指定の旧跡である。「旧跡」は都独自の文化財区分で史跡のようなものだ。写真正面は梅若念仏堂で、その左に見える黒っぽい塚が梅若塚である。念仏堂が近代的なのは防災の関係だそうだ。
梅若丸がここで亡くなったのは貞元元年(976)3月15日、高僧の忠円阿闍梨が塚をつくって弔ったという。木母寺では新暦4月15日を「梅若忌」として法要を行っている。
貞元への改元は7月の事なので、正確には天延四年ということになる。この年6月18日に京都を中心に大地震が発生し、その厄払いのために貞元への改元が行われた。かもめが「都鳥」と呼ばれるようになったのも、この頃ということになる。
おもしろいことに、春日部市新方袋(にいがたふくろ)の満蔵寺前にも「梅若塚」がある。
ここには春日部市が作成した詳細な説明板があり、梅若丸とその母の悲話を知ることができる。読んでみよう。
今からおよそ千年前、京都の北白川に住んでいた吉田少将惟房卿の一子梅若丸は七歳の時父に死別し、比叡山の稚児となった。十二歳の時、宗門争いの中で身の危険を思い下山したが、その時に人買いの信夫(しのぶ)(現在の福島県の一地域)の藤太にだまされて東国へ下った。やがて、この地まできた時、重病になり、藤太の足手まといとなったため隅田川に投げ込まれてしまった。幸いに柳の枝に衣がからみ、里人に助けられて手厚い介抱を受けたが、我身の素姓を語り、
尋ね来て 問わば答えよ 都鳥
隅田川原の 露と消えぬと
という歌を遺して息絶えてしまった。時に天延二年(九七四)3月15日であった。里人は、梅若丸の身の哀れを思い、ここに塚を築き柳を植えた。これが隅田山梅若山王権現と呼ばれる梅若塚である。
一方、我が子の行方を尋ねてこの地にたどり着いた梅若丸の母「花子の前」は、たまたま梅若丸の一周忌の法要に会い、我が子の死を知り、出家してしまった。名を妙亀(みょうき)と改め、庵をかまえて梅若丸の霊をなぐさめていたが、ついに世をはかなんで近くの浅芽が原の池(鏡が池)に身投げてしてしまったという。これが有名な謡曲「隅田川」から発展した梅若伝説であるが、この梅若丸の悲しい生涯と、妙亀尼の哀れな運命を知った満蔵寺開山の祐閑和尚は、木像を彫ってその胎内に梅若丸の携えていた母の形見の守り本尊を納め、お堂を建てて安置したという。
これが、安産、疱瘡(ほうそう)の守護として多くの信仰を集めてきた子育て地蔵尊(満蔵寺内)である。
木母寺の梅若塚と異なるのは、梅若丸の亡くなった年である。木母寺では貞元元年(976)であり、満蔵寺では天延二年(974)である。命日の3月15日や梅若丸の辞世は共通している。
さらに共通しているのは「隅田川」である。川がなければこの伝説は成立しない。前々回の記事で、この地区に「古隅田川」が流れていることを紹介した。隅田川あっての梅若伝説である。
さて、東京の隅田川である。その河口をくねくね走る「ゆりかもめ」。2020年の東京オリンピックに向けて勝どき駅まで延伸されるらしい。これで首都機能はますます強化され、東京は永遠の都となるだろう。やはり、ゆりかもめは首都東京を代表する鳥「みやこどり」であった。
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