各地に伝わる人柱伝説。伝説はまことしやかに語られるのが常であるが、実際にはどうだったのだろう。事実として人柱に立った人がいたならば、これほど残酷で悲しい出来事はない。それとも、大工事に伴って発生した犠牲者を象徴的に語ったのだろうか。では、戦争で国のために身を捧げた人はどうなのだろうか。さまざまに考えさせられる伝説である。
庄原市上原町の国兼池のほとりに「国兼池改築記念碑」と「弁財天の祠」がある。
この国兼池にも人柱伝説がある。記念碑に「お国お兼の二婦美人」「両人俗に池の主堤防擁護人柱犠牲に成池名に呼とも伝池辺の祠弁才天と祭る」と刻まれているが、詳しくはない。
正保三年(1646)の創設というこの池は、延宝三年(1675)、文久二年(1862)、明治41年(1908)、昭和28年(1953)とたびたび大規模改修が行われ、地域の水田を潤してきた。大きな記念碑の隣にある丸い碑は、文久の大改修を成し遂げた広島藩士、神川平助の記念碑である。
昭和29年3月建立の大きな記念碑には、国兼池の歴史が記されているのだが、現代の我々には少々読みづらい。しかも、伝説については簡単に触れているだけなので、別の資料を探すことにした。村上正名『備後の伝説上』(児島書店)の「国兼池」の項を読んでみよう。
時は文久三年、神川平助は毎年のように崩れる堤防の改修工事を急いでいた。梅雨が近づき、今年こそはと思っているところへ旅の僧が現れ、「土手の完成には、若い乙女のいけにえが必要じゃ」と言い残して去る。苦悩する村人を見かねたのは、庄屋の二人の娘だった。「どうぞ私達を人柱に立ててください。」姉のお国は21才、妹のお兼は19才であった。
朝早くから、村人達は今日も堤防を築くために集って来ました。その土手の上には、父を説き伏せ、美しい黒髪を切り落して、白装束に身をかためた庄屋の娘二人が立っていました。
「庄屋様の娘が人柱に立って下さるそうだ。」村人がおどろき、見つめる中を、二人の娘は、ほほえみさえうかべながら、手を取り合って堤防の穴に消えて行きました。二人の最後の願いにより竹ざおが堤防の上に出され、ゆらゆらと一すじの煙が立ちのぼっています。この煙が絶えたときこそ、二人の最後なのです。
しばしは、ぼう然と合掌を続けていた村人達も、「庄屋様のお嬢さまを、無駄死させては申し分けがない。」と、それからは、一振のくわ、運ぷ土、打ちかためる千本づきの手にも、必死の力がこめられて工事はなお続けられました。
あれから七日目、あかね色の雲だけを残して太陽が西にしずんで行くころ、一すじの煙は、すうっと空に消えてゆきました。村人はたった今出来あがった堤防に土下座して、いつまでもいつまでも立ち去ることができずに泣き伏していました。
それから、この池を誰言うとなく、「国兼池」と呼ぶようになったという。文久二年なのか三年なのかよく分からないが、人柱伝説としては比較的新しいのではないか。
広島藩領では最大のため池である。人柱伝説が伝えられるからには、かなりの難工事だったに違いない。今は国営備北丘陵公園として整備されている。
このGWに行ってみると、公園のどこでも多くの家族連れでにぎわっていたが、記念碑と弁財天のある一画だけは閑散としている。子どもに聞く耳があれば、伝説を語ってやると喜ぶだろう。興味がないようなら、すきをねらって自分だけでも行ってみよう。その際、迷子にならないように要注意だ。実際、迷子を知らせる放送が多かったのだ。
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