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児童虐待である。深刻な話題で申し訳ないが目を背けるわけにはいかぬ。統計によると件数は右肩上がりの急増である。最近の親はどないなっとんじゃ、と憤る気になるとともに、道徳頽廃の極みと現世を憂うのである。
しかし、最近読んだ本で少々見方が変わった。大倉幸宏『昔はよかったと言うけれど』(新評論)である。
かつて、道徳的な態度は日本人の美風だった。子が親を敬い親が子を慈しむのはどの家庭でも見られる光景だ。そんなイメージを持っていた。それを見事に覆すのが、この本である。読めば、戦前の日本にあっても、痛ましい児童虐待が起きていたことが分かる。
調べてみると、悲しいことだが、児童虐待の歴史はさらに古いものらしい。
新宿区市谷船河原町の筑土神社に「掘兼の井(ほりかねのい)」の跡がある。隣りの坂道を「逢坂(おうさか)」という。
「掘兼の井」は、井戸そのものが残っていないので、見ただけでは分からない。そこで、新宿区教育委員会の作成した説明板を読んでみよう。
掘兼の井とは、「掘りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。掘兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の掘兼の井には次のような伝説がある。
昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精根つきて死んでしまったという。
どうにも救いようのない伝説である。「昔」とあるだけで、いつの話か分からない。井戸を掘らせるのは現代ではありえないが、内容は今も耳にする話だ。
出典はどこにあるのか。考えられるのは寛文2年(1662)刊行の浅井了意『江戸名所記』である。その巻六に「堀兼井(ほりかねのゐ)」の項がある。読んでみよう。
牛込村のほりかねの井は、これ武蔵の名所なり、俊成卿の歌に、
むさしにはほりかねの井もあるものを、うれしく水にちかつきにけり
とよめり、むかし継母の讒(ざん)によりて、その父わが子に井をほらせけるが、いとけなかりければえほらで死けるゆへに、堀かねの井と名づけて、今にこれあり。
ほりかねの井にはつるへもなかりけり。又のみかねの水といふへく
やはり、救いようのない結末となっている。少し後の天和3年(1683)に成立した戸田茂睡『紫の一本』の巻三「堀兼の井」の項には、別の話が登場する。
牛込逢坂の下の井を云ふといへり。この水は山より出づる清水をうけて井となす。よき水なる故に、遠き方からも茶の水に汲む。汚れたる衣を洗ふに、垢よく落ちて白くなると云ふ。遺佚(いいつ)が云ふ。「この比(ごろ)方々歩き汚れたるままに、この水にて洗ひ、色白くよき入道になるべし」とて、洗へども洗へども、生れ付て黒く痩せ衰へたる坊主なれば、白くならず。遺佚面(つら)をはらし、「この水にて白くなるとは偽りなり」とて腹を立つ。
こうして物語は始まる。腹の立っている浅草の隠者・遺佚に、連れの四谷の下級武士・陶々子(とうとうし)はこのように語りかけた。
「なんと遺佚よ、中国南方の火山の『火浣布(かかんぷ)』というのはネズミの毛で織った布だそうだ。これは洗っても垢が落ちない。火の中に入れると、垢のあるうちはよく燃え、垢がなくなれば火も消える。取り出してみると、氷のように白く清らかだという。遺佚の黒さは、水ではどうやっても落ちないだろう。やがて死んで火葬され、また生まれ変わって白くおなりなさい。」
と陶々子は笑った。
これに遺佚は腹を立てた。井戸水を汲む桶をつるす釣瓶(つるべ)竹をとり、陶々子をバンバンたたいて、ついに竹を折ってしまった。
これを見ていた釣瓶の持ち主が
「いらんことをする坊主め、いま折れた竹のように、お前の腰骨をくだいてやろうか。」
と棒を持って出てきた。
陶々子は、これはいかん、と中へ割って入り
「この人は評判の歌詠みなんです。歌を詠んだら許してやってください。」
と言って
「早く早く」
と遺佚をせきたてた。
遺佚は棒におじけづいて、ふるえながら詠んだ。
堀兼の井筒にさげし釣べ竹折れにけらしな呑み見ざるまに
(堀兼の井の釣瓶の竹が折れてちゃったようだねえ。まだ水を汲んで飲んでもいねえのに。こいつぁ、ほりかねじゃなく、のみかねたってわけだ)
そう詠んだら、この歌に免じて許してくれた。
こっちの話の展開は滑稽でほっこりとする。ただし「掘兼」の由来の説明ではない。まあ、これもありだろう。
次の話は隣の坂道「逢坂」だ。逢坂といえば、行くも帰るもの関、逢坂の関を思い起こす。ここにも儚い逢瀬を楽しんだ男女の悲しい物語があった。同じく戸田茂睡『紫の一本』の巻一「逢坂」の項を読んでみよう。
むかし奈良の御門の御時、小野美佐吾(おののみさご)と云ふ人、武蔵守になりてこの国へ下り給ひしに、ここにさねかづらといひてたぐひなき美女ありしを、美佐吾おもひそめとり迎へてより、片時も離るる事なし。月日経て、帝よりの召しによりて奈良の都へ上り、若草山の麓に住み給ひしが、さねかづらが事を忘れかね、日にまし思ひ深く成りて、死ぬべき時になり、「我死なば武蔵の国へ体を下して、さねかづらが住みし辺りに葬るべし」と云ひ置きて、終(つひ)にむなしく成り給ふ。然れども遠き国の事なれば、下す事叶ひがたく、若草山の麓に納めて、ここを武蔵野と名付けるとなり。
さねかづらも美佐吾の事を明け暮れ恋ひ悲しみ、「今一度会はせ給はれ」と、神に祈りをかけたりしに、正(まさ)しき夢の告(つげ)にまかせ、この坂へ来たりて美佐吾を待ちたりしに、見しに替(かは)らぬ姿にて、夢ともなく現(うつつ)ともなく、しばらく相語らひ消え失せぬ。それよりこの坂をあふ坂と名付けるとぞ。三条右大臣の「名にしおはばあふ坂山のさねかづら」と詠み給ふは、近江の国の逢坂なり。「さね」は寝(ぬ)る所にとりて、「かづら」は女の事によする。女の名にてはなし。これは武蔵の国、「さねかづら」は名なり。さてさねかづらは、生きてよしなしと思ひ、かの坂の下の水に入りて死にたり。所の者あはれがりて、かの水を切り流して、むなしき屍(かばね)を取り上げてとむらひけるとぞ。
むかしむかし奈良時代に、小野美佐吾という人が武蔵守になってやってきた。この地には「さねかづら」という見たこともないような美女がいた。この女を好きになった美佐吾は嫁さんにして、片時も離れることがなかった。
月日が経って、美佐吾は天皇のお召しによって奈良の都に帰り、若草山の麓に住んでいたが、さねかづらのことは忘れることができなかった。日増しに思いは募り、死の間際になって「私が死んだら武蔵の国へ運んで、さねかづらが住む近くに葬ってくれ」と言い残し、ついに亡くなってしまった。
しかし、遠い場所なので遺体を運ぶことができず、若草山の麓に埋葬して、そこを武蔵野と名付けた。
さねかづらも明けても暮れても美佐吾を恋しく思い、「もう一度会わせくください」と神に祈っていた。夢のお告げを信じて、この坂に来て待っていると、昔と変わらぬ姿で美佐吾が現れた。夢とも現実とも分からぬまま、しばらく語り合っていたが、やがて美佐吾は消え失せてしまった。それから、この坂を逢坂というようになったという。
藤原定方(ふじわらのさだかた)の「名にしおはば逢坂山のさねかづら」という歌は、近江の国の逢坂を詠んだのである。「さね」は寝ること、「かづら」は女のことで、女の名前ではない。ところが武蔵の国のさねかづらは女の名前である。
さて、さねかづらは生きていても仕方がないと思い、この坂の下の水に入って死んでしまった。土地の人は哀れに思い、水を流し去り遺体を取り上げて葬ったということだ。
「名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」は百人一首25番の有名な歌である。逢うという名があるなら、さねかづらの蔓を手繰り寄せるように、人に知られないようにあなたを連れ出したいものだ。
「さね」は「さ寝」で共に寝ることだというのは、文中にも解説してある。おそらくは、百人一首から派生した伝説なのだろう。
暗くて重い虐待の話から、機転を利かせたのんきな話、しみじみとした悲恋の話と、三様の伝説が一か所で伝えられている。都会のど真ん中で昔を偲ぶよすがはないが、一粒で三度おいしい史跡である。
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