1350年の時を経て、土の中から緑の葉っぱが見つかった。しかし、空気に触れたのですぐに茶色に変色したという。
5月30日に福岡県教委と九州歴史資料館は、大宰府の防衛施設「水城」跡で、地盤補強のため土塁の底部に敷きつめた「敷粗朶(しきそだ)」の葉が、緑色を保った状態で出土したと発表した。シイノキやアラカシなどブナ科の若木の葉の付いた枝が使われていたようだ。
これが日本の防衛ライン「水城」である。写真は太宰府市水城一丁目にある東門第二広場から写している。史跡の中でも特に価値の高い特別史跡に指定されている。
倭国は集団的自衛権を発動して百済救援軍を派遣したものの、663年8月の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗する。このことにより倭国は朝鮮半島への影響力を失ったばかりか、報復する外国軍に侵攻される可能性が生じたのである。
そして翌年、朝鮮半島の高度な技術を導入して全長1.2kmの長城「水城」を築き、高度国防国家の建設を急いだ。『日本書紀』天智天皇3年条で確認しよう。
是の歳、対馬島(つしまのしま)、壱岐島(いきのしま)、筑紫国(つくしのくに)等に防(さきもり)と烽(とぶひ)とを置く。又、筑紫に、大堤(おおつゝみ)を築きて、水を貯(たくわ)へしむ、名づけて水城(みづき)と曰う。
水城の名称は「水を貯へしむ」ことによる。写真でいえば田の広がっているあたり、つまり博多側に外濠があり、水を貯えていたと想像されている。
結果的には、唐や新羅の侵攻はなく平和を保つことができたが、これが高度国防国家建設による抑止力の効果かどうかは分からない。
結局、水城は無用の長物と化してしまったのか。いや、そうではない。白村江の敗戦に続く第二の国難、元寇で再び水城が見直されるのである。ここは、前回に引き続き頼山陽先生に登場していただこう。山陽先生畢竟の大作『日本外史』である。巻四「源氏後記北條氏」からの抜粋である。
後宇多天皇の建治元年、元の使者杜世忠(とせいちう)・何文著(かぶんちよ)等九輩、長門に至り、留つて去らず。必ず我が報(はう)を得んと欲す。時宗、之を鎌倉に致して、龍口(たつのくち)に斬る。上総介北条実政(さねまさ)を以て鎮西探題となし、東兵を遣はして京師(けいし)を衛らしめ、西兵(さいへい)の衛れる者は、悉(ことごと)く実政に従はしむ。太宰府の水城を益し築き、冗費(じようひ)を省きて兵備に充つ。弘安二年、元使周福(しうふく)等、復(また)宰府(さいふ)に至る。復(また)之を斬る。元主、我が再び使者を誅(ちゅう)するを聞き、即ち憤意(ふんい)して、大(おほい)に舟師(しゅうし)を発し、漢・胡・韓の兵凡(およ)そ十余万人を合し、范文虎(はんぶんこ)を以て之に将(しやう)とし入寇(にうこう)せしむ。四年七月、水城に抵(いた)る。舳艫(じくろ)相銜(あいふく)む。
蒙古の襲来に備え、水城が修築された。それでも、十余万という大軍が押し寄せ、水城にまで到来したという。しかし待て。そこまで侵入されたのか。しかも「舳艫(じくろ)相銜(あいふく)む」、つまり船が相ついでやってきたという。
それはおかしい。船頭多くして船丘を進んだというのか。どうやら山陽先生の勘違いのようだ。おそらく元寇防塁と混同したのだろう。
ともかく、水城が実戦に活用されなかったのは何よりだ。やはり備えあれば憂いなしということか。備えがあることが抑止力の強化となる。おや、どこかで聞いたぞ。集団的自衛権の行使容認についての安倍首相の説明だ。
備えがあるから戦争を防ぐのか、備えがあるから戦争に巻き込まれるのか、後世に生きる方々が知るのみである。
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