そういえば天満宮にお参りすると牛の像をよく見かける。撫牛(なでうし)といって、お参りのかたが願いを込めてなでなでするものだから、一部分にツヤが出ている。下の写真では角と鼻がテカっている。
昭和60年(1985)に奉納されたこの「御神牛」は、天満宮の入口、延寿王院前にあるのでよく目立つ。太宰府市の誇る彫刻家、冨永朝堂(とみながちょうどう)晩年の傑作である。境内には他にも何頭もの神牛が鎮座しており、楼門前のそれは文化2年(1805)の奉納で県指定有形文化財である。
朝堂神牛が見ている方向には、このような鳥居がある。県指定有形文化財の明神鳥居で、鎌倉末期の建造と推定されている。やや横に広くスマートとは言えないが、それだけ多くの参拝者が通りやすいのだ。
神牛が奉納された年、文化2年も昭和60年は、どちらも丑(うし)年である。菅原道真が生まれた承和12年(845)も丑年。しかも十干十二支の組合せではいずれも乙丑(きのとうし)である。
道真公と牛の関係はそれだけではない。延喜3年(903)2月25日に道真公はこの地で没する。それからの話である。大隈和子『改訂太宰府伝説の旅』(古都大宰府保存協会)を読んでみよう。
そこで、亡骸を車にのせ、牛にひかせて太宰府のはずれまで来たところ、急に牛が動かなくなってしまいました。引っぱっても、たたいても、じっと動かない牛に、この地に葬ってほしいという道真公の思し召しであろうと、そこに葬ったのが、現在の太宰府天満宮の本殿の場所と伝えられています。
さて道真公を埋葬しての帰り、亡骸をのせた車を引いていた牛も五条通りの中ほどまで来たところで、ばたりと倒れ、息をひきとったということです。そこで、牛を憐れんだ人々が、ここに牛を葬り、塚を建てて供養したのが、神牛塚だと伝えられています。
太宰府市五条一丁目に「神牛塚之碑」という石碑が建っている。
この石碑は大正14年に、丑年生まれの人たちが、還暦を祝って建てたものだそうだ。その後ろにある自然石がもとの神牛塚である。樹の蔭で少々見えにくい。
そうか、ここが道真公の亡骸を運んだ牛さんのお墓であったか。ということは、冨永朝堂の神牛も、文化2年の神牛も、いやそれだけでなく、全国の天満宮にいる寝そべった牛さんの像は、ここに葬られた牛の肖像であったのだ。
貴重な情報を提供していただき、誠にありがとございました。機会を見つけて太宰府を再訪したいと思います。
投稿情報: 玉山 | 2021/01/20 21:53
写真にある石碑は建物の解体により新しい施設に移されました(同じ敷地内)。令和2年3月22日太宰府天満宮権宮司味酒氏により新しくなった神牛塚のお祓い式が挙行されました。
投稿情報: シンキチ | 2021/01/20 08:58