日本標準時子午線が東経135度で明石市と通過することは社会科の時間に習った。明石、明石と聞いたから、法律か何かで「明石市を通過するものとする」などと定められているのかのように思える。
ところが、日本標準時には次のような法的根拠があったのだ。明治十九年勅令第五十一号(本初子午線経度計算方及標準時ノ件)である。
明治二十一年一月一日ヨリ東経百三十五度ノ子午線ノ時ヲ以テ本邦一般ノ標準時ト定ム
ここには「明石」という文字はない。つまり、初めに明石市ありきではなく、東経135度にたまたま明石市が位置していたに過ぎない。ならば、なぜ標準時と言えば明石市とのイメージが生じたのだろうか。
明石市人丸町に「日本標準時子午線表示柱」がある。明石市立天文科学館の北側である。
地域の発展に向けては、ゆるキャラやB級グルメが大流行だが、地域資源を活用したまちづくりのコンセプトを明確にすることが大切だ。その意味では、明石の先人は先見の明があったと言えよう。
明石最初の子午線標識は、明石郡小学校長会の人々によって明治43年に建てられた。さすがは教育者、科学の心を子どもたちに育もうとなさったのだろう。
その次が昭和5年のトンボの標識である。小さい子から大人まで親しめる優れたデザインだ。誰が考えたのかと思ったら、やはり学校の先生だった。先生は分かりやすく伝えるのが得意だ。そこで問題。トンボは何を意味しているのかな?
①トンボは南に向かって飛ぶから
②トンボは日本のシンボルだから
③トンボは時間を正確に守るから
正解を含め、詳しいことを明石市立天文科学館『時と時計の物語』で読んでみよう。
昭和3年の天測の結果、天文学経度の東経135度子午線は、人丸山の月照寺境内を通ることがわかりました。そして月照寺の正面に新しい標識が昭和5年に建てられました。
この標識は神戸高等工業学校長・古宇田実氏の設計で、当時としては斬新なデザインでした。上部に日本の象徴であるトンボが取り付けられていたので「トンボの標識」として親しまれました。
(中略)
その後、第二次世界大戦中の米軍の空襲で、トンボの標識も被害を受けました。終戦後、昭和24年ごろから子午線標識の復旧のことが市民の間でも話題になってきました。
そこで明石市教育委員会は、子午線位置の再観測と標識の復旧を計画し、京大宇宙物理学教室の上田穣博士の指導のもとに同教室の今川文彦、満尾寿男両氏が昭和26年5月に月照寺境内で、観測をおこなったのです。
結果は、観測地点にあたる月照寺本堂前の経度は、東経134度59分59.11秒で、東経135度子午線は観測地点より20.2m東、当時のトンボの標識に対して11.1m東を通過することが分かりました。この観測にもとづき、昭和30年にトンボの標識が正しい場所に移されました。
子午線の位置を示すにとどまらず、科学の発達史まで語っている。なかなか奥が深い。文中の古宇田実(こうだみのる)氏が設計した旧神戸商工会議所ビルは、名建築として親しまれたが昭和62年に解体された。ネット検索するとその写真を見ることができる。今やトンボの標識は古宇田先生の代表作である。
12時の時報が鳴った。平均太陽が明石において南中したようだ。
天文科学館には面白い日時計がいくつかある。これは人影で時刻を示すもの。
この七輪のようなのは、半球型日時計。韓国の日時計は半球型だそうだ。
日本が誇る時計といえば、天智天皇の「漏刻(ろうこく)」という水時計だ。天文科学館入口近くの東経135度上に設置されている。
『日本書紀』によれば天智十年(671)4月25日、天皇は漏刻と鐘鼓によって初めて時を知らせたという。この日を太陽暦に換算して6月10日の「時の記念日」が制定された。
天文科学館の開館日も6月10日(昭和35年)である。トンボの標識が正しい位置に移された昭和30年頃から国立天文博物館誘致構想が持ち上がったという。しかし、その夢が叶わなかったため自力で創ったのが市立天文科学館であった。展望室付きの巨大な時計台は、「時」をまちづくりのコンセプトに据えた明石の人々のシンボルであり誇りでもある。
ちなみに、明石市の公式マスコットキャラクターは「時のわらし」という。うさぎ耳のビーバーみたいでかわいい。2013年度のゆるキャラグランプリで1121位という知名度である。最近流行のご当地ヒーローでは「軌道星隊シゴセンジャー」が活躍している。地元の和菓子屋人丸では「子午せん」という日本地図に東経135度が示された教育的な煎餅が売られている。
このこだわりに敬意を表したい。こだわってこそ特色が現れてくるのだ。全国の消滅可能性都市は、明石市のまちづくりの姿勢を参考にすべきである。Time is Money.なのだ。
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