広島県高田郡吉田町の町の木はモクセイで、町の花はツツジだった。現在は平成の大合併で安芸高田市になっている。市の木はサクラで市の花はアジサイとなったが、市役所は吉田町吉田に置かれている。
旧吉田町の木と花は、下のようにデザインマンホールで今も市民に親しまれている。気になるのは「百万一心のまち」というキャッチフレーズである。今日は「百万一心」に着目したい。
安芸高田市吉田町吉田の毛利元就墓所の前に「百万一心碑」がある。昭和六年の建立である。
少し不思議な書体のこの碑にはどのような由来があるのだろうか。隣りの石碑には次のように刻まれている。
百万一心礎石の由来
口碑の伝うる所によれば毛利元就郡山築城の際鎮護の儀に代えるの意を以て姫丸壇の礎石に百万一心の文字を刻し之を埋めたりと蓋百の字特に一劃を省き一日とし万の字故らに略字に従う故に之を分解すれば一日一力一心となる即ち日を一にし力を一にし心を一にし衆以て事に當らば百事就らざるなく城守の法亦この外に出でざることを寓せしならん其礎石今所在を逸すと雖も文化十三年夏長州藩士武田泰信なる者郡山城趾に登りこの石を見欣喜措く能はず其の文字を模写し帰り山口豊栄神社に奉納したるもの現存す本碑は即ち之に因りて作製したるものなり
毛利元就が郡山城の姫之丸壇に、「百万一心」の文字を刻んだ石を埋めて、基礎を固めたという。その字体は「百万一心」を「一日一力一心」と読ませ、精神一到何事か成らざらん、のような意味合いを持たせている。
文化十三年(1816)夏、長州藩士武田泰信が郡山城跡で件(くだん)の石を発見し、拓本にとって持ち帰った。明治15年(1882)になって拓本を豊栄(とよさか)神社に奉納し、それに基づいて百万一心礎石が作成された。
豊栄神社(山口市天花一丁目)は最も有名な毛利元就画像(国指定重文)を所有している神社である。たが「百万一心」の拓本原本は失われているという。
このエピソードには一次史料による裏付けがなく、武田泰信が郡山城で見たという石も見つかっていない。そうすると真偽を明らかにする手掛かりは、あの「百万一心」の不思議な書体である。書道史の観点から調べるとよいが、なにぶん詳しくない。
ただ、元就と同時代の書風には、例がないように思える。そして、あの丸い書体を冷静に眺めると、江戸時代に流行した神代文字にも似ている。ハングルの影響が見られる神代文字には丸っぽいのが多い。
なんとも謎多き「百万一心碑」である。しかし、真贋論争を超えて、「一日一力一心」の高い精神性には、中国制覇を成し遂げた元就公ならさもありなんと思わせるだけの説得力がある。すべては努力の積み重ねなのだ。
そう思って冒頭のマンホールを眺めよう。「百万一心のまち」には住民の心を一つにするという願いが込められている。今朝もこのマンホールの上を歩いている人がいるだろう。一歩ずつ一歩ずつ明日に向かって歩み続けている。
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