京の東市で晒された将門の首は「われに失われた四肢を与えよ、さらば一戦を試みん」と歯噛みしたという。そりゃそうだ。クビになっては何もできないのは勤め人ならよく分かる。我に適度な仕事と時間とカネを与えよ、さらば一戦を試みん。
将門の首は3日目に胴体を求めて関東まで飛んで帰ってきたが、力尽きたのか東京で落ちてしまった。首が求めていた胴体はどこにあるのだろうか。
坂東市神田山(かどやま)の延命院に「将門の胴塚」がある。塚は将門山古墳という埋蔵文化財であり、その上の大きなかやの木は市の天然記念物である。
石造物がいくつかあるが、どのような意味があるのだろうか。説明板を読むこととしよう。
延命院の将門山(神田山)
平将門は天慶三年(九四〇)二月一四日の夕、戦に敗れて本陣に帰る途上で矢に射られて三十八歳の生涯を閉じた。首は京都に送られたが、後に武蔵国柴崎村に葬られた。胴体はこの延命院境内の一隅に埋められて将門山と呼ばれた。この地は相馬御厨の神領なので将門山はあばかれることなく今に及んでいる。
昭和五十年に「南無阿弥陀佛」の碑は東京都の「将門塚保存会」からの寄贈、「大威徳将門明王」の碑は延命院住職倉持照最氏の寄進、顕彰碑は岩井市民の浄財によって建設された。
昭和五十七年二月 岩井市 岩井市観光協会
将門が討死したのは、国王神社のあたりとも北山稲荷大明神(坂東市辺田)のあたりとも言われている。首は持ち去られたが、胴体は場所を移してなんとか葬ることができたのだろう。
写真では、左から「大威徳将門明王」の碑、「南無阿弥陀佛」の碑、顕彰碑である。この顕彰碑は昭和五十年で比較的新しい。古い顕彰碑は漢文のため理解が容易でないことが多いが、これは市長の思いが込められて読みやすく、貴重な情報を知ることができる。読んでみよう。
豊饒な文化は豊饒な歴史から生れる。
郷土の歴史、即ち遠い父祖たちの明確な足跡やその思情を我々は正當に然も充分な敬意と愛情とを以て学ばねばならない。こゝに現在の我々の享受する文化の基調がある。
今日、岩井市々民が全員一致して、各自の浄福な心情と和やかな叡智と善意の基金とを結び集め、古く遠い父祖の偉業の一端を記念し得るに到った事は、郷土の歴史の悠久ないのちの一點に全市民のまごころが開花したものと云うべきであらう。
東京都平将門首塚保存會から贈られた将門公慰霊の石塔婆は昭和十五年大蔵省大火の砌り、大蔵大臣河田烈氏が遊行寺二世真教上人の筆になる文字を寫して将門公首塚に建立したもので、今に致っては由緒ある文化財と見るべきである。
この貴重な石塔婆を将門公の胴體が埋められてゐる當神田山延命院内将門山の地に、岩井市々民の総意を以て建立し、将門公の御霊並びに公に従って戦い命を落した我々岩井市々民の遠い祖先の霊を慰め合はせて郷土全市民の久遠の平和と精美な栄楽とを祈念するものである。
昭和五十年陰暦二月十四日 岩井市長 染谷照雄
昭和五十年に首塚の将門塚保存会から「南無阿弥陀佛」の碑が寄贈された。この碑は昭和十五年の大蔵省大火からの復興に伴って、第二次近衛内閣の河田烈(かわだいさお)大蔵大臣により建立されたという由緒あるものである。
昭和15年5月6日、大蔵省の建物は落雷により炎上した。この年は将門没後千年の節目に当たっていた。それゆえに「祟り」と怖れられているのだ。こうした背景を持つ石碑を移設したということは、ここもオカルトスポットなのか。
いや、そうではない。首塚を供養した石塔婆が胴塚に移設されたということは、首に四肢が与えられたということだ。歯噛みした将門の首は満足したことだろう。
だからと言って、将門が一戦を交えようなどと思うはずはない。故郷岩井(坂東市)の人々によって手厚く供養されているのだから。
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