親鸞の『教行信証』は知っていたが、どこで書かれたのかまでは考えたことがなかった。『教行信証』には国宝に指定されている親鸞真筆の「坂東本」がある。かつて坂東報恩寺(台東区東上野六丁目)が所蔵していたから、そう呼ばれるが、実際にその名のとおり、坂東つまり関東で書かれたものであった。
浅学をさらすようで恥じ入るが、実は親鸞聖人が長く関東にご滞在になったのは、このたび初めて知った。その滞在地は稲田御坊西念寺(笠間市稲田)である。このお寺には「浄土真宗開闢之霊地」という碑がある。『教行信証』はこの地において、元仁元年(1224年)4月15日に草稿本が完成したとされる。
関東には親鸞ゆかりの地が多い。今回は、導きあってか旅の途中で出合った史跡を、二か所紹介しよう。
坂東市辺田(へた)の西念寺に「親鸞聖人御手植之松」がある。聖人像の近くに、そう刻まれた石碑がある。もとの木は昭和53年頃に虫害により枯れたそうだ。
このお寺について坂東市教育委員会の説明板に教えてもらおう。
西念寺は親鸞聖人二十四輩第七番の旧跡地で浄土真宗の寺である。その昔天台宗で聖徳寺といわれた。境内には太子堂や親鸞聖人お手植えの松がある。又その当時の阿弥陀如来坐像は平安末期の作で県指定文化財となっている。
「親鸞聖人二十四輩」とは親鸞の高弟24名と彼らを開基とする寺院のことである。その第七番西念寺は親鸞の越後流罪時に弟子となった西念房ゆかりの寺で現在は真宗大谷派である。境内に太子堂があるのは、親鸞聖人が聖徳太子を信仰していたことに関係がある。
聖人は四、五十代の大半を関東で過ごしている。稲田からここまではかなりの距離があるが、教線を広く伸ばしていることが分かる史跡である。もう一つ紹介しよう。
常総市大生郷町(おおのごうまち)の大生郷天満宮に「親鸞上人礼拝の杉」がある。
お手植えではなく礼拝だという。どういうことだろうか。説明の碑文を読んでみよう。
この古木は、浄土真宗(一向宗)の開祖親鸞上人が布教巡錫の途中、当天満宮に参拝された折、お手植された杉であると伝えられる。
樹齢約七百年の大木であったが、明治三十五年の台風によって幹半ばで折れてしまった。更に、大正八年の社殿炎上の際類焼した。今もその焼け跡がみえる。
右側の小木は、その大火後に植えられたものであったが、昭和六十年に枯死した。
両木とも、従来は拝殿の直前に聳え立ち、御神木として崇められてきた。
今度、境内整備事業の一環として、現在地に移植し、覆屋を建て、永久保存を図る。
昭和六十三年十月吉日
やはり、お手植えの杉であった。この天満宮に参拝したのだろう。親鸞といえば「神祇不拝」という言葉を思い出す。しかし、神様は拝みません、のような単純な意味ではないようだ。ここは学問の神様である。同じ学究の徒として、真理追究の思いを新たにしたに違いない。
松を植え、杉を植えた親鸞聖人。試みに「親鸞聖人 お手植え」で検索すると、紅梅(滋賀県愛知郡愛荘町愛知川・宝満寺)、菩提樹(下妻市下妻乙(栗山)・光明寺)、桜(下野市国分寺・蓮華寺)、楠(京都市東山区粟田口三条坊町・青蓮院)、榧(かや、岐阜県羽島郡笠松町円城寺・河野圓城寺)等を見出だすことができる。
各地で様々な樹木をお手植えされた親鸞聖人、偉大な宗教家は国土緑化運動の先駆者であった。
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